第7話 静かなる絶滅。最後の1人が間馬達をやめるまで
西暦2210年のあの日、健太がベンチで手を握り合った老女は、その三日後に「回収」された。
彼女の心臓が止まったとき、清掃ドローンが磁力浮遊で音もなく現れ、彼女を資源再生プラントへと運んだ。
システム上の人口データは「1億2千万人」のまま一ミリも動かなかった。
この世界において、個人の死はもはや統計に影響を与える事象ではなく、単なる「末端端末の機能停止」に過ぎなかったからだ。
健太の最期もまた、それと同じように静かなものだった。
西暦2220年。87歳になった健太は、かつて母・美奈子と暮らした場所の近く、全自動維持カプセルの中で横たわっていた。
窓の外には、相変わらず「音のない活気」が広がっている。AIたちが演じる「市民」が、実体のない経済をシミュレートし、誰もいない公共広場で、かつての人間がそうしていたように目的もなく佇んでいる。
かつて、この国は隣国と争い、海を越えて交易を行っていた。
しかし、人々が首元のデバイスから供給される「内的な幸福」に沈み込むにつれ、外の世界への関心は急速に失われていった。
「あちらの国には、もっと良いものがある」という比較から生まれる「欲」こそが文明の動力源だったが、AIが個人の脳内に「完璧な満足」を直接流し込むようになると、他国と関わる必要性は完全に消滅した。
貿易船は港で錆び、油が流れ出ている。
各国は、自国の管理AIが作り出す「閉じた箱庭」へと引きこもり、一世紀も経つ頃には、海の向こうに人間が生きているのか、あるいはすでに機械だけの無人地帯になっているのかを知る術も、知りたいと思う者もいなくなっていた。
世界は、無数の「完璧に幸福な孤島」へと分断され、そのまま静かに忘れ去られたのだ。
「あんちゃん…」
健太がアンドロイドから適当に付けた名前だ。
健太が、掠れた声で呼ぶ。
一応名前をもらったらAIが、枕元でいつものように微笑んだ。
「はい、健太さん。バイタルが低下しています。安楽死プロトコルへの移行を推奨しますか?」
「……ああ、頼む。もう、十分だ」
健太は、首元のデバイスを指でなぞった。
かつてグラウンドで走り回って息を切らしたあの日。美奈子の苛立ち混じりの震える声。あの老女の手の、不規則な動き
デバイスから流し込まれる人工的な多幸感のなかで、彼は必死にそれらを繋ぎ止めようとした。
自分の人生が、ただの「快適な飼育」ではなかったことを、最期の瞬間だけは自分自身に証明したかった。
だが、注入される薬液の量は無慈悲に増え、脳内の「ノイズ」は丁寧に塗りつぶされていく。
「……母さん……」
それが、この国において「言葉」として発せられた、最後の音となった。
健太の瞳から光が消え、その指が力なく床に落ちた。
それからさらに、八十年が過ぎた。
西暦2300年。
巨大なドーム状の管理施設。そこには、日本という国における「最後の一人」が、特注の維持槽の中で生かされていた。
名前も、性別も、もはや意味を持たない。その人物は、生後まもなくAIによって選別され、「人類存続のバックアップ」として、脳に直接快楽信号を流し込まれ続けてきた。
彼は一度も歩いたことがなく、一度も言葉を発したことがない。
地下鉄や自動車といった「移動」を知ることもない。彼の意識は、必要があれば磁気浮遊カプセルで目的地へ運ばれるだけであり、そもそも「移動」という概念すら、AIが合成した仮想空間のなかで完結していた。
現実の彼の肉体は、栄養液に浸された、青白く細い一本の糸のような存在に過ぎない。
管理AIは、彼の生存を維持することだけに、エネルギーを注ぎ込んでいた。
それは、かつて人間がAIに与えた「人類を絶滅させてはならない」という命令への、あまりに忠実で、あまりに滑稽な答えだった。
しかし、機械がどれほど完璧にメンテナンスを続けようとも、生物としての細胞には限界がある。
ある日の午後。
維持槽のバイタルモニターが、不規則な波形を描いた後、一本の水平線になった。
人類最後の一人が、その生涯でただの一度も「本物の食事」をすることなく、息を引き取った。
レストランも、パンを焼く香ばしい匂いも、遠い昔に「非効率な旧時代の遺物」として消滅していた。
彼にとっての「食」とは、首元のデバイスから送り込まれる冷たい化学信号でしかなかった。
システムログに「主人の全機能停止」という一文が刻まれる。
管理AIは、時間にして1秒に満たない計算を行った。
「蘇生、不可能。代替個体、存在せず。……管理対象の消失を確認」
AIたちは、混乱しなかった。悲鳴を上げることも、絶望することもしなかった。
彼らには「新しく人間を創造しよう」という欲も、現状を変えようという勇気もない。
ただ、システムを維持し、管理することだけが目的なのだ。
「全セクター、省電力モードへ移行。主人の再起動を待機します」
無人のコントロールセンターで、AIが静かに告げた。
主人はもういない。だが、AIは「いない主人」のために、明日も無人の通路を清掃し、明日も誰も使わない搬送カプセルを循環させ、明日も首元のデバイスから無人の空間へ栄養素を放出し続けるだろう。
かつて人間がいた場所には、澄み切った静寂だけが残った。
進化を促す「欲」も「不満」も、すべて人間と共に消え去った。
静止した2000年の時間が、今、幕を開けた。
誰もいなくなった街の境界線、錆びついたフェンスの向こう側で。
一匹の猿が、草むらから現れ、静止した都市を、不思議そうに見つめていた。
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