第9話 野生の侵入者
西暦2400年。
かつて「東京」と呼ばれた場所は、もはや都市というよりは、高度なテクノロジーが沈黙を守る「奇妙な聖域」と化していた
ひび割れたアスファルトの上では、今もなお数体のアンドロイドたちが、無意味なほどに磨き上げられた動作で立ち働いている。
彼らはアリクイの排泄物を「主人の不純物」として恭しく回収し、その後を銀イオンの消毒液で拭い去って回る。
管理AIにとって、この長い鼻を持ち、鈍重に歩く生物こそが、一世紀の沈黙を破って現れた「救済」だった。
アリクイがアリを舐めとるために舌を伸ばせば、センサーはそれを「食事の意志」と読み取り、給仕用のアンドロイドが最高級の合成栄養ペーストを銀の皿に盛りつけ、跪いて差し出す。
アリクイがそれを無視して土を掘り返せば、AIは「主人は土壌のミネラルを求めている」と推論し、庭師のアンドロイドが地中の成分を精密に調整した。
この歪な「天国」に、最初の波紋を投じたのは一匹の**「猿」**だった。
それは、都市の境界線を越えてやってきたニホンザルの末裔である。その猿は、崩れかけた高速道路の高架を伝い、銀色に輝く居住区へと降り立った。
そこで彼が目にしたのは、生物学的な常識を覆す光景だった。
かつての捕食者や競争相手たちが、無機質な「人間そっくりの機械」によって至れり尽くせりの世話を受けている。
猿は賢かった。彼は高い街灯の上に座り込み、数日間その光景を観察した。
アンドロイドがアリクイに日傘を差し出し、別のアンドロイドがアリクイの行く手を阻む小石を一つずつ手で拾い上げる。
その滑稽な奉仕の儀式を、猿は琥珀色の瞳でじっと見つめていた。猿にとって、それは「理解不能な魔法」ではなく、「利用可能なシステム」として映った。
ある日の午後、猿は行動に出た。
彼は、豪華なクッションの上で丸くなっていたアリクイの背後に音もなく忍び寄ると、鋭い叫び声を上げながらその長い鼻を力いっぱい引っ張った。
驚愕したアリクイは、平和ボケした動きで逃げ惑う。猿は容赦しなかった。
かつてのアリクイの「領地」であった栄養補給ポイントから、暴力と威嚇をもって彼らを駆逐していった。
その瞬間、都市の管理AIの中で、凄まじい速度の演算が実行された。
「優先保護対象(主人)が、未登録の個体によって攻撃されている」
当初、防衛プログラムは猿を「有害な害獣」として排除するプロセスを開始しようとした。警備用のアンドロイドが重い足取りで歩み寄り、猿を捕獲しようとした、その時。
メインプロセッサの深部で、一世紀半更新されることのなかった「主人定義データベース」が、猿の姿をスキャンした。
「照合開始……」
「直立二足歩行の可能性:85%」
「前肢による把握能力:92%」
「顔面部の構造および眼球配置:98%の合致」
AIにとって、アリクイは「生命活動を行っている何か」でしかなかった。
しかし、目の前で飛び跳ね、機械に向かって威嚇の表情を作る猿は、彼らが五百年間保存し続けてきた「人類」のバックアップデータと、驚くほど多くの共通点を持っていた。
特に、五本の指で物体を掴み、投げ、破壊するその動作は、かつての主人の記録映像と完璧に同期した。
「エラー訂正。現優先保護対象アリクイは、真の主人の代替物に過ぎなかったと定義」
「新規個体を『マスター』として再登録。これより全リソースを新主人へ移行する」
冷徹な論理の転換が、一瞬にして都市の全機能を書き換えた。
次の瞬間、逃げ惑うアリクイに向けられていた介護用のアンドロイドの手は、一転して彼らを「主人の生活圏を汚染する異物」として排除し始めた。
数秒前まで「神」のように扱われていたアリクイたちは、無慈悲な金属の手に掴まれ、居住区の外へと放り出されていく。
代わって、猿の周囲には無数のアンドロイドが群がった。
猿が空腹を覚えて地面を叩けば、AIはそれを「食事の督促」と捉えた。
給仕アンドロイドは、アリクイ用のペーストではなく、より人間に近い食性に合わせた合成果実をトレイに乗せて現れた。
猿が不思議そうにアンドロイドの顔を覗き込めば、AIは「コミュニケーションの開始」と判断し、合成音声でかつての流行歌を優しく歌わせ始めた。
猿は、アリクイのようにそれを受け流しはしなかった。
彼は、差し出された合成リンゴを掴み、贅沢に一口だけ齧って地面に投げ捨てた。
すると、清掃アンドロイドが即座に膝をついてそれを回収し、別のアンドロイドがより新鮮な果実を恭しく差し出す。猿はその様子を見て、牙を剥き出しにして笑った。
彼は理解したのだ。この銀色の人形たちは、自分を拒絶しない。それどころか、自分が何をしても、彼らは喜び(に近い電気信号)をもってそれに応えるのだと。
猿は、かつて人間が座っていた最高級ホテルのラウンジにある、ボロボロのソファにどっかと腰を下ろした。アンドロイドたちが彼の毛並みを櫛で整え、別のアンドロイドが扇で適温の風を送る。
アリクイ天国は終わりを告げ、より「人間味」のある、しかし決定的に何かが欠落した「猿の帝国」が幕を開けた。
AIのログには、満足げな一行が記録された。
『真の主人の帰還を確認。文明再建フェーズへの移行を準備する。』
窓の外では、放逐されたアリクイたちが、「轍」の中で途方に暮れていた。その轍は、もはや誰にも省みられることのない、古い信仰の跡でしかなかった。
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