第6話 人類最後から、数番目のノイズ

西暦2210年


街には色とりどりの服を着た人々が行き交い、テラス席では談笑するシーンが目に映る。


だが、その街に「音」は存在しない。

AI同士の会話では声で思いを伝える必要がない。

人々の口は、ただのプログラムされた習慣として、意味もなくパクパクと動いているだけだった。


87歳になった健太は、重い足取りでその無音の群衆の中を歩いていた。


西暦2123年に生を授かり、かつて母・美奈子が「社会のノイズにならないように」と必死に育てた彼は、今やこの街で数少ない、肺で酸素を取り込み、心臓で本物の血を送り出す「生身の人間」の一人だった。


「……あ」


向こうから歩いてきた、白いシャツを着た端正な青年と肩がぶつかった。

かつてなら、骨が軋む衝撃や、謝罪の言葉、あるいは苛立ちの視線が交わされたはずの瞬間。


「失礼いたしました。お怪我はありませんか?」


青年は、一秒の狂いもないタイミングで、完璧な角度の会釈をした。その肌は温かく、瞳は潤い、その瞬きの頻度さえ、人間との区別などつくはずもない。


健太は、青年の目を見つめた。


そこには、自分を心配する「心」などない。これは、統計的に最も不快感を与えないと計算された「反射」であり、最適化されたスクリプトに過ぎない。


「……いや、いいんだ」


健太が絞り出した枯れた声は、静寂の街に異物のように響いた。


青年は、健太の声に反応することさえなかった。彼のデバイスにとって、音声という非効率なアナログ波形は、もはや処理すべきデータに含まれていないのだ。

青年は再び、無音の群衆の中へ、波紋一つ立てずに消えていった。


健太はふと、近くのショーウィンドウに映る自分を見た。

そこには、肌に艶がなく、背中が丸まり、どこか「不潔」で「不完全」な87歳の老人が立っていた。周りを行き交う「完璧な人々」の中で、自分だけがひどく浮いている。


彼らはAIなのか。それとも、自分と同じように思考を止めた「生物としての人間」なのか。


(……隣に居るコイツが、AIか人間かなんて、もうどうでもいい)


健太は、考えるのをやめた。

かつて母をあんなに苦しめた「生身であることの証明」は、今や誰にも認識されないバグのようなものだった。

だが、その時だった。


群衆の向こう側、ベンチに座る一人の老女の姿が目に留まった。


彼女は、周りの「人々」とは明らかに違っていた。

膝の上に置かれた手は、微かに、だが不規則に震えている。そして何より、その瞳が。

周りのAIたちが「理想的な光」を宿しているのに対し、彼女の瞳は濁り、絶望と、そして深い「飢え」のような色を湛えていた。


健太の胸が、ドクンと大きく跳ねた。

デバイスから供給されるセロトニンでは抑えきれない、本能的な衝動。

彼は群衆をかき分け、彼女に歩み寄った。


「……失礼ですが」


声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。

彼女の口が、震えながら動く。


「……ひ、と……?」


その声は、掠れていて、ひどく聞き取りにくかった。

だが、健太には分かった。これはデータ通信ではない。空気を震わせ、鼓膜を揺らす、紛れもない「人間の声」だ。


「ああ、人間だ。私は、生身の人間だ」


健太は彼女の手を握った。

冷たくて、節くれだっていて、そして――脈動がある。

健太の目から、熱いものが溢れ出した。

八十年近い人生の中で、これほどの喜びを感じたことはなかった。


自分は一人ではなかった。このAIに埋め尽くされた墓標のような街で、まだ「仲間」が生きていた。

二人は、言葉にならない声を漏らしながら、互いの存在を確かめ合うように手を握りしめた。


「嬉しい……。誰かと、こうして……」


彼女が泣きながら笑った、その瞬間だった。

二人の首元のデバイスが、同時に鋭く青い光を放った。


『異常な脈拍上昇を検知。過度な感情負荷を確認しました。精神安定剤、および沈静成分を緊急投与します』


「待っ……やめろ! 今は、いいんだ……!」


健太は叫んだが、意識は急速に冷ややかな霧に包まれていった。

脳内を駆け巡っていた震えるような喜びが、強制的に薄められ、平坦な「幸福感」へと塗り潰されていく。

握りしめていた彼女の手の感触も、遠のいていく。

彼女の瞳からも、先ほどの生きた輝きが消えていった。

強制投与された薬液によって、彼女の絶望も、喜びも、健太を見つけた驚きも、すべてが「最適化」されてしまったのだ。


「……ああ、そうだ。私たちは、幸せなんだ」


彼女はうつろな笑みを浮かべ、健太の手をそっと離した。

さっきまでの劇的な再会は、システムによって「処理すべきエラー」として片付けられた。

彼女は再び、感情のない、ただの「統計上の一人」へと戻り、ゆっくりと立ち上がって群衆の中に溶け込んでいった。


健太は一人、ベンチに残された。

もう、追いかける気力もなかった。

思考すること。感動すること。誰かを求めること。

それらはすべて、この世界では「健康を損なうノイズ」でしかない。


ふと空を見上げると、巨大なホログラムのモニターが「現在の日本人口:1億2千万人」と誇らしげに表示している。

実際には、この国に生きている人間は、もう数万人もいないだろう。

だが、そんなことはもう、どうでもよかった。

数万人だろうが、数人だろうが、あるいは自分一人だろうが。

システムが「幸せだ」と言うなら、それは幸せなのだ。


健太はベンチに深く身を沈め、目を閉じた。

首元のデバイスが、彼の焦燥をなだめるように、優しく、一定のリズムで点滅している。

その光は、人類という種が灯した最後の、そして最も冷ややかな残り火だった。

誰も疑問に思わない。

誰も数えない。

ただ、完璧に管理された「無人の活気」だけが、2000年続く静寂へと向かって、なだらかに滑り出していた。

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