【最終章:さよならのあとで、約束は海に還る】

海は、

あの頃と何も変わっていなかった。


空の色も、

潮の匂いも、

波が砂を撫でる音も。


——変わったのは、

ここに立つ人間だけだ。


朝比奈は、

結城と並んで砂浜に立っていた。


手は触れていない。

でも、

距離は自然だった。


無理に近づかなくていい。

離れる必要もない。


そんな距離。


「……久しぶりだな」


朝比奈が、

独り言のように言う。


結城は、

何も聞き返さなかった。


ここは、

言葉を減らす場所だと、

分かっていたから。


視線の先。

水平線の向こう。


かつて、

車椅子を押しながら見た海。


白いワンピースが、

風に揺れていた。


《ねえ、朝比奈くん》


澪の声が、

記憶の奥から浮かぶ。


《私がいなくなってもさ》


胸が、

少しだけ締め付けられる。


でも、

もう息は止まらない。


朝比奈は、

一歩、前に出た。


「……来たよ」


誰に向けた言葉か、

分からない。


澪かもしれないし、

過去の自分かもしれない。


「約束、

 守れなかったかもしれない」


声は、

静かだった。


「幸せになるって、

 簡単じゃなかった」


波が、

足元まで寄せては返す。


「でも……

 生きた」


それだけは、

嘘じゃない。


「泣いて、

 逃げて、

 忘れたふりして……」


一度、

言葉を切る。


「それでも、

 ちゃんと、生きた」


結城が、

そっと隣に立つ。


触れないまま、

同じ海を見る。


「澪」


名前を、

初めてここで、

まっすぐ呼んだ。


「君を好きだったこと、

 もう、

 否定しない」


胸の奥が、

静かに温かくなる。


「君がくれた約束は、

 消えなかった」


朝比奈は、

ポケットから小さな紙片を取り出した。


——昔、澪が書いたメモ。


『また、海に来よう』


文字は、

少し滲んでいる。


それを、

波打ち際にそっと置く。


潮が、

紙を濡らし、

ゆっくりと攫っていく。


「……ありがとう」


その言葉は、

別れじゃない。


感謝だった。


結城は、

その背中を見ていた。


奪わない。

上書きしない。


ただ、

これからを一緒に生きる。


「朝比奈さん」


呼ばれて、

振り返る。


結城は、

穏やかに微笑んだ。


「行きましょう」


「……ああ」


二人は、

海に背を向けて歩き出す。


過去を捨てるためじゃない。

抱えたまま、前へ進むために。

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