【第六章:譲る、という選択】

――紗良


夜の空気は、

思っていたより冷たかった。


駅前の歩道橋。

人の流れは途切れず、

誰も立ち止まらない。


紗良は、

フェンスにもたれて下を見ていた。


信号が変わるたび、

人が流れ、

また消えていく。


——みんな、

ちゃんと前に進んでる。


それなのに、

自分だけが、

ここで止まっている気がした。


少し前。

ほんの少し前まで。


視線の先に、

朝比奈がいた。


その隣に、

結城がいた。


二人は並んで歩いていて、

距離は近いのに、

触れてはいなかった。


でも、

分かってしまった。


——あの距離は、

誰にも入れない距離だ。


紗良は、

それ以上見ないように、

目を逸らした。


「……ほんと、ずるい」


声に出したのは、

自分に聞かせるため。


泣かない。

ここでは。


そう決めていた。


「私だって、

 ちゃんと好きだったのに」


胸の奥が、

じくりと痛む。


軽い気持ちじゃなかった。

慰め合いでも、

寂しさの埋め合わせでもない。


——ちゃんと、恋だった。


朝比奈が不器用に笑うところ。

優しすぎて、

自分のことを後回しにするところ。


澪の話をする時だけ、

少しだけ遠くを見る目。


(……あの目)


分かっていた。

最初から。


朝比奈の中には、

誰かがずっといた。


それでも、

もしかしたら、と思ってしまった。


——大人になった今なら。

——時間が経った今なら。


でも、

違った。


時間は、

澪を薄くしなかった。


むしろ、

深く沈めただけだった。


「……負けた、か」


誰に?

何に?


分からない。


ただ、

自分が入り込む余地は、

もう無い。


紗良は、

ゆっくりと息を吐いた。


泣かない。


泣いたら、

この選択が揺らぐ気がした。


「私は……

 ちゃんと好きだった」


誰にも聞かれない声で、

そう言う。


それだけは、

なかったことにしない。


好きだった。

大事にしたかった。

未来を考えたこともあった。


——だからこそ。


中途半端にしない。


紗良は、

スマホを取り出し、

一度、画面を見て、

また伏せた。


今じゃない。


直接、言う。


背中を押す言葉


少し時間が経ってから、

紗良は朝比奈を呼び止めた。


駅から少し離れた、

静かな通り。


街灯の下で、

朝比奈が振り返る。


「紗良……?」


その顔を見て、

胸が、

一瞬だけ揺れる。


——ああ。

やっぱり、好きだったな。


でも、

迷わない。


「ねえ、朝比奈」


声は、

思っていたより落ち着いていた。


「私を選ばないなら」


朝比奈の表情が、

強張る。


「ちゃんと、

 あの人を選びな」


沈黙。


夜の音だけが、

二人の間を通り抜ける。


「……紗良」


何か言おうとする朝比奈を、

手で制する。


「言い訳、いらない」


紗良は、

はっきりと言った。


「中途半端が一番嫌い」


一拍、置く。


「私ね、

 自分の恋を、

 惨めに終わらせたくないの」


朝比奈は、

何も言えない。


その沈黙が、

答えだった。


「だから」


紗良は、

小さく笑う。


「行ってきな」


その言葉は、

優しさだけじゃない。


覚悟だった。


「澪を好きだったことも、

 結城さんを選ぶことも、

 全部ひっくるめて」


視線を逸らさず、

言い切る。


「ちゃんと、

 自分の人生にしなよ」


朝比奈は、

ゆっくりと頷いた。


「……ありがとう」


その一言で、

十分だった。


紗良は、

背を向ける。


もう、

振り返らない。


「さよなら」


それは、

別れの言葉じゃない。


——自分の恋に、

区切りをつける言葉。


歩き出す。


胸は痛い。

でも、

空っぽじゃない。


ちゃんと、

恋をした記憶が残っている。


それで、

いい。

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