【第五章:壊れても、言葉にしたかった名前】
夜だった。
仕事終わり、
結城と並んで歩いていた帰り道。
街灯の光が、アスファルトに淡く滲む。
会話は、
途切れ途切れだった。
他愛ない話をしていたはずなのに、
朝比奈の胸は、
ずっとざわついていた。
——もう、限界だった。
「……結城さん」
呼び止めた声が、
思っていたより低く、震えていた。
「どうしました?」
立ち止まった結城が、
振り返る。
その顔を見た瞬間、
朝比奈の中で、
何かが音を立てて崩れた。
似ている。
あまりにも。
目の形も、
笑い方も、
少し首を傾げる癖も。
——違うのに。
「……ごめんなさい」
最初に出たのは、
謝罪だった。
「俺、ずっと……」
喉が詰まる。
息が、上手く吸えない。
結城は、
何も言わず、待っていた。
急かさない。
否定しない。
それが、
余計につらかった。
「俺、結城さんのことを……」
言いかけて、
止まる。
違う。
この言葉は、
今言ってはいけない。
朝比奈は、
両手で顔を覆った。
指の隙間から、
光が滲む。
「……重ねてた」
声が、
壊れていた。
「あなたを見てる時、
ずっと……
別の人を、思い出してた」
結城は、
息を呑んだ気配だけを見せ、
それでも黙っていた。
「最低だって、分かってる。
失礼だし、
卑怯だし……」
言葉が、
止まらない。
「でも……
止められなかった」
——澪。
名前を、
まだ出せない。
胸の奥で、
ずっと暴れている。
「俺は……」
涙が、
ぽろりと落ちた。
一滴。
また一滴。
何年ぶりだろう。
泣く、という行為が、
こんなにも苦しかったのは。
「……俺、
あの人を失ってから、
ちゃんと泣いてなかった」
声が、
かすれる。
「強くならなきゃって、
普通に生きなきゃって……
そう思うたびに、
全部、奥に押し込んで」
結城が、
そっと一歩近づく。
でも、触れない。
距離を、
ちゃんと残す。
「忘れたふりをしてた」
朝比奈は、
嗚咽を噛み殺しながら続ける。
「でも……
忘れられるわけ、なかった」
胸を押さえる。
そこに、
空洞なんてなかった。
ぎゅうぎゅうに詰まった、
名前と記憶で、
苦しくなるほどだった。
「……澪が」
ついに、
名前が零れた。
「澪が、
すごく、すごく……」
声が、
震えすぎて、
言葉にならない。
「……好きだった」
やっと、
言えた。
世界が、
一瞬止まったような気がした。
「本当に、好きだったんだ」
泣きながら、
何度も繰り返す。
「一緒にいるだけで、
未来が見えた。
失うなんて、
考えたこともなかった」
肩が、
大きく揺れる。
「なのに……
守れなかった」
——違う。
誰も責められない。
それでも、
朝比奈は自分を責める。
「生きてるのが、
申し訳なくなるくらい……
好きだった」
涙が、
止まらない。
そのとき。
結城が、
初めて触れた。
朝比奈の背中に、
そっと手を置く。
抱きしめない。
引き寄せない。
ただ、
“ここにいる”と伝える触れ方。
「……それで、いいんです」
結城の声は、
驚くほど穏やかだった。
「そんなふうに、
誰かを好きになれたなら」
朝比奈は、
顔を上げる。
涙で、
何も見えない。
「それを……
消さなくていい」
結城は、
ゆっくりと言った。
「私、
代わりになりたいなんて、
思ってません」
その言葉が、
胸に落ちる。
「でも……
その想いを、
ちゃんと話してくれたことは」
少しだけ、
微笑む。
「嬉しいです」
朝比奈は、
声を上げて泣いた。
子どもみたいに、
嗚咽を漏らして。
何年も、
閉じ込めていた感情が、
一気に溢れ出す。
「……ありがとう」
絞り出すように、
そう言った。
結城は、
何も言わず、
ただ隣に立っていた。
夜風が、
二人の間を通り抜ける。
その風は、
少しだけ、
海の匂いがした。
——さよならのあとで、
やっと、
約束を思い出した。
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