【第一章:普通という名の、静かな漂流】

朝比奈の一日は、

驚くほど規則正しい。


朝七時に起き、

コーヒーを淹れ、

ニュースを流し見しながら身支度を整える。


鏡に映る自分は、

“どこにでもいる社会人の男”だった。


特別な傷も、

特別な輝きもない。


——そう見えるだけで、

胸の奥には、

誰にも見せない空洞がある。


会社に着くと、

一気に現実が押し寄せる。


メール、電話、資料作成。

数字と納期に追われながらも、

朝比奈は淡々と仕事をこなした。


感情を挟まない。

それが、一番楽だから。


昼休み、

同僚と並んで歩く。


「朝比奈さん、今度飲み行きません?」


「いいよ、都合ついたら」


軽い会話。

深く踏み込まない距離感。


恋愛の話題になると、

自然と視線を外す。


「彼女いない歴、更新中?」


冗談交じりに言われても、

朝比奈は笑って返す。


「今は仕事優先かな」


嘘ではない。

でも、本当でもない。


——誰かを好きになる準備が、

まだ整っていないだけだ。


夜、帰宅すると、

部屋は静まり返っている。


テレビをつけても、

音はBGMにしかならない。


ベランダに出て、

夜風を吸い込む。


一瞬、

潮の匂いがした気がして、

胸がざわつく。


「……気のせいだ」


自分に言い聞かせる。


澪は、もういない。

過去だ。

思い出だ。


そう整理したはずなのに、

“何もない夜”ほど、

彼女は近くなる。


それでも朝比奈は、

泣かない。


泣き方を、

忘れてしまったから。

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