『さよならのあとで、約束を思い出す』― 涙よりも遅く、君は胸に帰ってきた ―

本城 翼

【プロローグ:約束は、まだ胸の奥で息をしている】


駅前の交差点は、朝の光に包まれていた。

前日の雨がまだ乾ききらず、アスファルトは淡く光を返している。車の走行音と、人々の足音が重なり、いつもと変わらない平日の朝だった。


朝比奈は、信号待ちの列の最後尾で足を止めていた。

スーツの袖口を直し、スマートフォンで時刻を確認する。遅刻はしない。今日も、問題なく一日が始まるはずだった。


――そう、思っていた。


「それ、落としましたよ」


背後からかけられた声は、驚くほど静かだった。

呼び止めるというより、そっと現実に触れるような声。


振り返ると、白いワンピースを着た女性が立っていた。

手には、朝比奈の定期入れ。


「ありがとうございます」


そう言いながら、受け取ろうとした瞬間。

指先が、わずかに止まった。


胸の奥で、何かが鳴った気がした。


似ている、と思った。


顔立ちではない。

髪型でも、声の高さでもない。


ただ、その場に立つ佇まい。

風を受ける姿勢。

人と距離を取る、あの無意識の癖。


「……あの?」


女性が不思議そうに首を傾げる。

その仕草に、心臓が一度、大きく跳ねた。


朝比奈は、慌てて視線を逸らした。


「すみません。人違いでした」


自分でも驚くほど、声は平坦だった。

女性は一瞬きょとんとしたあと、柔らかく微笑んだ。


「そうですか。じゃあ、よかった」


それだけ言って、彼女は人波の中へ溶けていった。

白い背中が、徐々に遠ざかる。


信号が青に変わる。

人の流れが動き出す。


朝比奈は、その場に一拍遅れて歩き出した。


胸の奥に、しまい込んだはずの名前が、

微かに息を吹き返していた。


――澪。


もう呼ばないと決めた名前。

思い出さないと決めた約束。


それでも、

約束はまだ、そこにあった。

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