第八章 揺れ動く、恋の花

第13話・雨に、色づく

 今日はいつもよりやけに早く目が覚めた。カーテンの隙間から差し込む光は淡く、外は雨の音で満ちている。

 あいにくの天気――、でも小晴にとって雨は〈非日常を香り立たせる〉そんな存在だった。

 小晴はベッドから抜け出して、鏡を見た。


「うわ、…やば」


 鏡に映った自分の顔を見て、思わず笑う。

 完全なる失敗だ。緊張しすぎて、あまり眠れなかったせいで目元にクマが滲んでいた。


「…、やっちゃった」


 ガクン、と小晴は肩を落とした。少し前に新調した洋服が鏡越しに視界の端で揺れる。Aラインのベージュのキャミソールワンピース。インナーはクリーム色のノースリーブトップス。上から温かみあるアイボリーのざっくりニット。


 朱音たちが背中を押してくれたコーディネートだ。

 ボルドー色のバックと、少し背伸びしたスクエア型のヒールサンダル。女の子全開のデート服。


(大丈夫、クマはメイクで隠せばどうにかなる)


 深く息を吸って吐き出す。まだ準備もしていないのに、ちょっとだけドキドキしてきた。


 拓也さんと、お出かけ…――。


 わたし、デートしちゃうんだ、このあと。

 小晴は胸に手を当てて、もう一度深く呼吸をした。






「うわ、どうしよう。もうこんな時間」


 あんなに朝早く起きたのに、もう家を出ないといけない時間になっていた。スマホに、お財布、メイク直しに…、バックを持ってもう一度鏡の前で最終確認をする。


「よし。大丈夫」


 メイクで丁寧に隠したクマも、鏡に顔をより近づけ最終チェック。

 うん、問題なし。小晴は慌ただしく自分の部屋を出て、階段を降りた。トントントントン、と速いテンポ音が軽快に響く。リビングの横を通り過ぎ、玄関へ足早に向かう。


「いってきまーす」


 新しいサンダル。

 うん、かわいい。


「いってらっしゃい。気を付けてね」


 あんなに朝早く起きたのに、時間が過ぎるのが早すぎる。何度も行った最終確認をクリアした小晴は、玄関のドアを開けた。雨は、しとしとと厳かに降っている。灰色の世界に一輪の花が咲くようにパッと開いた傘。


「はーい」


 玄関を締めるその声は、普段より少し――弾んでいる。



 *



 電車に揺られ辿り着いた待ち合わせの駅。

 手の中でスマホがブーっと鳴る。電車を降りる手前で、送ったLIMEに返事が返ってきたらしい。


〈改札でてすぐのとこにいるよ〉


 たったそれだけのメッセージで、ちょっと口角が上がった。改札を出たら、拓也がいる。なんだか、ふわふわとした夢を見ている気分だ。駅の改札を抜けて、小晴はきょろきょろと周囲を見回した。


「あ、」


 ――すぐに分かった。


 見つけた途端、ドキンっと心臓が大きく跳ねる。オフホワイトのスウェットトレーナー、黒のキレイめなテパードパンツ、ローカットのスニーカー。指にはごつめのシルバーリング、モノトーンの腕時計。


(っ…、え、待って。拓也さん、かっこいい)


 あの人と今からデートするのかと思うと、現実感がまるでない。折り畳まれた黒い傘を片手で持ちながらスマホを眺めている拓也の姿は、学校で見ていた時よりも新鮮で、ドキドキして、しばしその場で固まった。


 既読が付いているのに返事がなかったから、変に思ったのだろうか。ふいに、拓也がスマホから視線を上げた。小晴は、自分が佇む方向に向けられる視線を、まるでスローモーションのように感じながら見つめた。彷徨っていた視線がすぐに定まった。


 拓也が、小晴を見つけたのが分かった。目が合っただけじゃなくて、無感情だった顔つきが、ふわりと優しさを纏ったからだ。柔らかさを帯びた瞳が、自分に向けられていた。


(なにこれ、ドキドキする)


 まるで今日だけは、拓也の特別が自分だと錯覚しそうで…――。


「おはよ」


 いつの間にか目の前に立った拓也が小晴を見下ろしながら、ふっと空気を緩ませるように穏やかに微笑んだ。


「お…、おはよう、ございます」


 なんだか恥ずかしくなって、小晴は顔を伏せる。


「今日の小晴ちゃん、いつもと雰囲気違って新鮮。服、似合ってる。かわいいね」

「っ…」


 たぶん、拓也にとって言い慣れた言葉。でも、反射的に耳が染まる。雨の音が遠のいて、心臓の音が大きく聞こえる。拓也の笑った声が鼓膜を優しく揺すった。


「お腹すいてる?」


 話題を変えた拓也に、小晴はコクンと頷く。


「よかった。良いところあるからそこ行こっか。俺もお腹すいたし」


 茶目っ気たっぷりに笑う拓也は、余裕がない小晴とは対照的だ。


(うっ…、かっこいい)


 どうしよう。拓也さんが毎秒かっこいいを更新していく。


「そのあと、ちょっと歩く? あいにくの雨だけど」


 小晴から視線を外した拓也は灰色の空を見上げた。つられて小晴も空を見た。

 あいにくの雨。


「…。でも、わたし。雨、そんなに嫌いじゃないです。ちょっと特別な気がして」


 小晴は言いながら少し照れて、誤魔化すように微かに笑った。自分の中ではいつもと変わらない理由なのに、なぜか拓也に伝えるときだけ変な勇気が必要だったから。


「……、そっか。それなら、雨デート一緒に楽しもうね」


 静かな間を一呼吸半ほど置いたあと、拓也はにっこりと綺麗に笑った。



 *



 駅から少し歩いた閑静な住宅街の一角に、ひっそりと佇む路地裏のパスタ屋。温もりある木製の看板には、可愛らしい字体で「Trattoria Foglia(トラットリア・フォッリア)」の文字が描かれている。外観は落ち着いた色合いで統一されていて、柔らかい印象ながらどこか洗練されたお洒落なお店という印象を与えている。


 店先を覆うように生い茂る木々が、雨に濡れて輝いて見えた。

 ちょうどお昼時だから、店内は小晴たち以外のお客さんで賑わっていても不思議ではない。


「入れますかね?」

「ん? 大丈夫だよ。予約しといた」


 何でもないことのように言われ、ドキッとした小晴が単純すぎるのだろうか。


「先どうぞ」

「っ…、ありがとうございます」


 傘を畳み終えた小晴をちょうどいいタイミングで、中へと促してくれる。そこに押し付けのようなものは一切なく、全てがスマートだ。カランカラン、と軽やかな音が二人の来店を知らせた。


「いらっしゃいませ~。お二人様ですか?」


 店員が来店に気が付いて、にこりと出迎えてくれる。


「予約してた、片倉です」

「お待ちしてました。奥にどうぞ」


 すんなりと席に案内され、コップに入ったお水ふたつとカトラリーが運ばれた。テーブルの真ん中に置かれたランチのメニュー表。ここまで自然なエスコートで小晴をリードしてくれている拓也は、それを小晴の方へ渡しながら微笑んだ。


「はい、どうぞ」

「ありがとう、ございます」


 おずおずと受け取る。


「濡れてない?」

「大丈夫です。ちょっとしか歩いてないから」


 拓也がいつもより近い距離にいて緊張する。ちょっとだけ手が震えているかもしれない。


「拓也さんは? 大丈夫ですか?」

「うん、俺は平気だよ。それより、なに食べよっか。パスタがおすすめみたいだけど、カレーとかもあるね」


 拓也の言葉に促されて、小晴の視線も自然とメニュー表へと落ちた。

 ランチセットと書かれた場所に並んだ文字列は、全て美味しそうな名前をしている。


「わあ、全部美味しそう。…これ、悩んじゃいますね」

「ふ、真剣じゃん」


 笑った声に顔を上げる。目が合った。


「変、ですか?」


 ちょっと不安になって聞いてみた。


「ううん。かわいい」


 間髪入れずに返ってきた返事は、小晴の頬を染める。


「…、また、そうやって揶揄ってる」


 小晴は拓也をジトっと睨むように見つめた。


「揶揄ってないよ、本心です」


 わざとなのか、ふざけているのか、拓也は少し真面目な顔を作ってこちらを見返す。非常に心臓に悪い。小晴は、ゆっくりと視線の先をメニュー表に移した。


「あ、いまドキドキしてるでしょ」

「してません!」


 売り言葉に買い言葉、のように否定の言葉を口にする。ドキドキしてるなんて言ってしまったら、なんだか負けのような気がした。


「えー、残念。俺は結構ドキドキしてるよ? 小晴ちゃんとデートできて」


 拓也の軽口。全然そんな風には見えない。余裕綽綽って顔にでかでかと書いてある。


 ほら、これだから拓也さんはずるい。

 こっちは顔が真っ赤だ。今日のお出かけ、持つかな。私のゲージ。


 拓也の冗談っぽい甘いセリフに早くもノックアウトされかけている小晴がいた。


 




「うわぁ。美味しそう」


 思わず小晴の口から素直な感想が飛び出た。お皿に盛られたキラキラ輝くパスタとカレーに、小晴の瞳も同様にきらめいた。


「贅沢すぎますね」


 パスタとカレー、それぞれ1皿ずつ計4つのお皿がテーブルの上に並んでいる。お店側のご厚意で、すでにシェアした状態で持ってきてくれたのだ。


『うちの店パスタが結構量があるので、シェアするのもおすすめですよ。パスタとカレーとか、楽しいかも』


 こそっとお店の人が教えてくれたから、おすすめ通りにしてみたけれど大正解だ。テーブルの上の豪勢な状態に、胃袋もキュウウっと切なさを訴えている。美味しそうなご飯を目の前にしたおかげか、この時ばかりは、小晴の中で張り詰めていたものがふっとほどけた。


「わかる。めっちゃよだれ出そう」


 いつも大人な拓也が今は少年に見えて、「ふふ、」と思わず笑ってしまう。


「今の顔、かわいい」

「っ、もう、すぐそういうこと言わないでください!」

「ごめん。自然体な小晴ちゃんが新鮮で嬉しいから、つい」


 毎分毎秒。拓也さんは、甘い言葉を吐いてないと死ぬのだろうか。

 大学で会う拓也の5倍いや、10倍くらい、今日の拓也は甘くて、優しくて、嬉しそうに笑う。


(…、冗談って言えなくなっちゃうじゃん)


 小晴は、心の中でぼそっと小さく呟いた。

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