第8話・色づく前の、白

「恋…、恋かあ…」


 してるのかな。私。

 構内のカフェテラスで一人座りながら、小晴は同じことを永遠にぐるぐると自問自答していた。


 ストローで吸ったアイスカフェラテがズズズっ、と音を立てた。気づけば、もう底をついている。微かに残ったカフェラテは、もうストローで吸えないくらいで、ほんの少し溶け出した氷がグラスの中で積み木のように重なっていた。


「はあ…」


 小晴はグラスをテーブルに戻して、頬杖をついた。認めたくないのに、朱音の言葉が頭の中を何度も反芻する。


(困っちゃったなあ)


 自分の頬を人差し指でむにむに触って、それから最終的にうなだれた。


(私が悠真さんか、拓也さんに恋してる?)


 まさか、そんなわけ。

 否定をしているはずなのに、頭の中に二人の顔が浮かんで知らぬうちにまた上の空だ。

 悠真さんか…―――。拓也さんに…―――、恋。


(っ…!)


 考えるだけで顔に火が付く。


「っ、やっぱないない。なしなし、なし!」


 やだやだ、ぜったいやだ。

 してないもんはしてない。

 私ぜったい恋なんてしてない。


(もう、朱音ちゃんのバカ。陽ちゃんも怜央君もばかばか、みんなばかー!)


 これじゃあ、勉強だって身が入らない。上の空が加速する一方だ。もうすでにちょっとだけ涙目だ。

 こんな気持ちは、やっぱり恋じゃない。ただ動揺しているだけ、そう。私は動揺しているだけなのだ。小晴は、どうにかして頭の中から先輩ふたりを追い出そうと無理やり思考を転換した。空になったグラスをさらに遠ざけて、バッグの中を漁る。何か違うことで気を紛らわせようと思ったからだ。


「あれ、珍しいね。ひとり?」


 論文の翻訳でもしようかとひらめいたところで、声がかかった。


「…え?」


 顔を上げて目を見開く。


「今日は、陽たちと一緒じゃないの?」


 今の今まで脳内を占拠していた人物が、なぜか目の前に立っていた。自分が考えすぎたあまり召喚でもしたんじゃないかと、小晴は目を白黒させた。


「…拓也さんも、悠真さんと一緒じゃないんですね」


 混乱した頭ではうまい返しも思いつかず、思いついたまま深い意味もなく拓也にされた質問とほとんど同じ内容を返した。


(あれ。いまちょっと笑顔固まった?)


 僅かに表情から柔らかさを失ったように感じて、もう一度確認しようと目を凝らしたが瞬きの間に違和感はなくなってしまった。


「うん。そんなに一緒にはいないけど、ニコイチに見える?」

「まあ、はい。…、見えますね」


 返事をしつつ、一瞬だけ持った違和感に疑問を抱く。

 小晴が普通に肯定したことが面白かったのか、拓也は笑みを溢した。


「小晴ちゃんって素直だよね。そういうところ、かわいいと思う」


 溢れた笑いにドキリとまた心臓が鳴った。拓也さんの笑い方は、大人っぽくてちょっとドキっとする。さっきの違和感なんて、拓也の言葉ですぐに消し飛んで行った。


「…、も~、ほんとに揶揄うのやめてください。そういうことばっかり言ってると他の子に勘違いされちゃいますよ」


 ほんとに悠真さんも拓也さんも冗談ばっかりなんだから、と小晴は愚痴でもこぼすように小さな声で言葉を続けた。


「……、小晴ちゃんは勘違いしてくれないの?」


 ちょっとした沈黙のあと、静かな声が鼓膜に届く。耳が小晴の意思とは関係なく赤く染まった。


「え、へ? 何言ってるんですか。もう、そういうの本当によくないやつですよ。本当に勘違いしちゃったらどうするんですか」


 笑って誤魔化して、胸のドキドキは無視して…―――。

 勘違いなんかしてませんという顔で拓也に笑顔を向ける。


「俺は嬉しいかな。小晴ちゃんが勘違いしたら」


 何気ない会話と同じ調子で言われた言葉に息をのんだ。いつもと変わらない柔らかい表情をした拓也から目が離せなくなる。さっきまで浮かべていたヘラヘラとした笑みは、もう消えている。小晴は静かに落とされた衝撃に言葉を失った。


 永遠にも感じた沈黙を破ったのは、一粒の雫だった。小晴よりも先に拓也が何か発しかけた時に、ぽつんとテラスの机に落ちた。


「あ、雨…」


 小晴は拓也から視線を外し、空を見上げた。

 一日曇りの予報だったのに。

 やっぱり今朝香った雨の匂いは、勘違いじゃなかったみたいだ。


「本当だね」


 拓也も空を見上げた。薄グレーだった空は、今は濃くて重たい灰色をしていた。しかし、世界は寒々とした色を与えられながらも、どこか温かく清々しい。冬と違って、ハッとするような美しい色が視界の端々を彩っているからかもしれない。


「そういえば、さっき何か言いかけました?」


 しばし雨に気を取られていた小晴は、ふと思い出して拓也へと視線を戻した。


「ううん。なんでもない。忘れて」


 相変わらず物腰の柔らかな人。口元に浮かべられた微笑と、穏やかな瞳に魅せられない女の子は、きっと少ないだろう。


「それじゃあ、またね」

「はい、また」


 拓也と別れ、また小晴はひとりになった。

 さっきの、なんだったんだろう。拓也の顔を思い出し、首をひねった。けれど小晴はすぐに「まあいいか」と考えるのをやめた。考えてもわからないことを考えたって時間の無駄だ。ただ、考えたくなかっただけかもしれないけれど、とにかくこれ以上悩みを増やすのは嫌だった。


「私もそろそろ行こうかな」


 もっと雨が強くなってきたら、ちょっと困っちゃうし。

 この時期は好きだけれど、流石にバッグの中身が濡れたら大変だ。空になったグラスを片づけて、小晴はカフェテラスを後にした。



 *



 全ての講義を終えた小晴は、駅の方向へ足を運んでいた。雨は、相変わらずしとしとと趣深く降っている。


「あれ、小晴?」

「あ、悠真さん」


 横を通り過ぎようとした学生の輪の中から声をかけられた。声をかけてきた人物がわかって目を丸くする。悠真と一緒にいた人たちは、知らない人たちだった。サークルの先輩ではないことはすぐに分かる。悠真の学科の人たちだろうか。


「いま帰り?」

「はい。帰ろうかなって」

「えー、そうなんだ。なら俺もちょうど帰ろうとしてたし、一緒に駅まで行かない?」

「え!?」


 急な誘いに小晴の目がまん丸く広がった。


「いや、あの、お友だちと一緒の方が…」

「いいのいいの。んじゃ、そういうことなんで。お前らまた明日な」


―また女の子ひっかけてんのかよ。

―後輩ちゃんが可哀そ~。

―いい加減にしとかねえとそのうち刺されるからな。


 小晴の決定はすっ飛ばされて、すでに確約したこととして話が決まってしまった。先輩たちの仲の良さがわかるお見送りなのか疑わしい言葉を背に、悠真が小晴の隣を歩く。最初は緊張したが、他愛ない話をしながら駅へ向かう道は、ただ楽しい居心地のいい時間だった。一切の気まずさが挟まれないことが純粋にすごいと思う。


(悠真さんって、ほんと誰とでも上手に喋るなあ)


 たまに揶揄われて、照れたり恥ずかしくなったり、そんなことは数えきれないほどあるけれど、小晴は悠真と話していて一度も気まずいと感じたことがない。


(そりゃ、みんなに好かれるわけですよね)


 悠真のことを嫌う人間は、きっと本当にそりが合わない人間か、悠真と深く関わったことがない人間くらいだろう。

 私だって、決して悠真さんのことが嫌いなわけではない。ただ揶揄われすぎて、ちょっと身構えてしまっているだけだ。


(そう、ただそれだけ…)


 ふと会話が止まっていることに小晴は気が付いた。悠真の視線が、じっとこちらを見ている気配がして小晴も視線を横へと動かした。目が合って、小晴はなんだろうとほんの少し首を傾げた。


「小晴って、なんか紫陽花っぽいよね」


 なんの前触れもなく告げられた唐突な言葉に、小晴は怪訝気な表情を浮かべた。


「…、そう、なんですか?」


 彼の真意を探ろうと、悠真の瞳を見つめ返す。

 どういう意味だろう。


(雨が似合うとか? そういう意味かな)


 自分なりに紫陽花っぽい人の解釈を考えてみる。


「うん。気が付いたら一番キレイな色してるとこ」


 澄んだ空気と雨の匂い。悠真の悪戯が成功したみたい楽し気な顔。空気は冷たいのに、なぜか小晴の顔だけがやたらと熱を持っている。


(あれ、変だ。世界がおかしい)


 息、詰まる。呼吸、できない。


「小晴のそんな顔初めて見た。もしかしてちょっとは意識した? 俺のこと」


 スッと細められた瞳が、小晴にとっては猛毒で――。

 雨で下がった気温のせいか、冷えた指先が小さく震えた。

 一時停止した世界の端では、三色の紫陽花だけが雨をはじいて揺れている。赤と青と、まだどちらにも染まっていない白色が…――。

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