第四章 気づきたくなかった、心のざわめき
第6話・優しさの置き場所
きっとあの日から何かが変わった。すこしずつ私たちは色を変えた。それは、まるで芽吹く場所で紫陽花が色を変えるように。
「じゃあ、みんなー。えー、机端に寄せてくださーい」
4限目が終わる頃、ひとつの教室に色んな学部学科の学生たちが連なるように入っていく。小晴もその中の一人だったが、彼女が到着した時にはすでにそれなりの人数が教室内に集まっていた。小晴が顔をのぞかせたタイミングは、ちょうど拓也の声が全体に投げかけられている最中だった。
どうやら、少し来るのが遅かったみたいだ。慌てて荷物を端に置いて、これからはじまる1年生向けの講習会の準備に挨拶も飛ばして取り掛かった。
「機材ここでいい?」
「ホワイトボードは?」
「1年、名前わからんからみんな胸んとこガムテ貼るよ~」
至る所で色んな人の声が飛び交う。ガヤガヤと賑やかな教室内は、サークル内の仲の良さを表しているみたいだ。
「はるちゃーん」
機材の設置をしていた陽介がひと段落ついたらしい。小晴もやっと落ち着いたちょうどいいタイミングに声をかけられた。
「陽ちゃん。お疲れ」
「はるちゃんも。着くのちょっと遅かったね」
彼の口から飛び出た言葉で、自分が教室に来たタイミングを知られていたんだと知った。
「うん。教室出るとき人がすごくてなかなか出られなくて。間に合ってよかったよ」
照れ笑いを浮かべると陽介も穏やかに笑った。二人の間に和やかな空気が生まれる。
「あ、そこのふたり!」
空気を割くように、誰かの声が矢の如く飛んできた。自然と二人の視線が声の方へ向く。
「そうそう。そこそこ。陽介くん、椿さん。ふたりとも今手あいてる?」
声の主は、3年生の先輩だった。目が合うと呼んだことを確定させるかのように早口で頷いた。彼女の腕には3連のアクセサリーのように布製のガムテープが通されていて、右手には4,5本の極太マジックペンが握られている。
「手あいてるなら名前書いちゃって」
はい、と渡されたガムテープとマジックペンを小晴は慌てて受け取った。取りこぼさないようにすると、手の中でガチャガチャとペンが音を立てる。
「、ありがとうございます!」
なんとか落とさずに受け取ってお礼を言う。
「書いたら、あそこに戻しておいてくれたらいいから」
「はーい」
陽介の緩んだ返事を聞いて、先輩は「よろしくー」と軽い口調で踵を返した。そうすると、また二人の間を落ち着いた空気が囲う。
「先書く?」
「いいよ。先書いちゃって」
陽介に促され小晴は少し悩んだ後、ガムテープに「小晴」と書いた。自分の名前が書かれた部分だけを引きはがして、びりっと千切る。ガムテープの端から上手く切りきれなかった糸が出た。次に使う陽介のために出てきた糸くずの処理をしてから回そうとした時、急に手元に暗い影が落ちた。
「俺のも書いてよ」
影と一緒に聞き覚えのある声も落ちてくる。
「え?」
今できたばかりの名札と、ガムテープを持ったまま小晴は顔を上げた。
「俺、まだなんだよね。手が空かなくてさ」
さっきまでみんなにテキパキと指示を出していた拓也がいつの間にか、陽介と小晴の近くに来ていた。図書館での出来事が頭をよぎり、動揺が分かりやすく顔に出てしまったが慌てて顔を下げることで事なきを得る。拓也を変に意識している様を見せずに済んだことに、ホッとした。
「私なんかで良ければ…」
「ありがと。助かるわ」
冷静さを取り戻すと返事ができた。ちょっとだけ緊張しながらガムテープに「拓也」と名前を書く。自分の名前を書いた時よりも少しだけ丁寧に、へたくそな字にならないように気を付けながら文字を書いた。
ちょっとドキドキした。書き終えて、変になっていないかと不安に思いながら、さっきの要領でガムテープを千切る。今度は上手く切れた。
「これで大丈夫ですか?」
出来たばかりの名札を拓也に手渡すと、受け取った後にじっと手元を見た。
「小晴ちゃんって字キレイだよね」
そして急に褒められた。視線をふいに投げられ、息を詰める。光を内包した黒い瞳が、さらに丸みを帯びた。
「そ、そんなことないです」
それから、分かりやすく小晴の照れが表情に混じる。
「そう? キレイだよ」
ただの会話のはずなのに、何故こんなにひとつひとつの言葉が攻撃力を持って刺さるのだろう。拓也にしてみれば、きっとなんの含みもない些細な日常会話であるはずなのに――。
小晴が上の空になっている間に、拓也は受け取ったガムテープを胸に貼った。
「じゃ、今日の講習ふたりともよろしく」
聞こえた言葉で、やっと小晴は瞳を瞬かせた。立ち去ることを意味するハンドサインを目にして、会話が終了したことを理解する。
「頑張りまーす」
無言で見送る小晴の代わりに陽介が言葉で拓也を見送る。気を許した後輩風の陽介の返事が、小晴の奥底でとくとくと脈打つ何かには少しだけ救いだった。
小晴たちは、講習会の準備も無事終えた。あとは始めるだけだ。教室内は後から来た1年生たちが加わったことで、さっきよりも賑やかさが増している。
「はいはい。みんな静かにー」
賑やかさの中、わおんとマイクを通した陽介の声が教室中に響いた。ホワイトボードとスクリーンの間に立った陽介はいつもよりしっかりして見えて、小晴は「先輩っぽい」とやや感動を覚える。そんな私は、今日陽ちゃんの助手だ。
(き、緊張する~)
手にはすでに汗がにじんでいる。ちゃんとサポート出来るだろうか。
「今日は集まってくれてありがとうございます。みなさんも講習会の準備お疲れ様です。えーと、今日は1年生のみんなに撮影の時に使ってるカメラについて知ってもらう会なので、分からないこと・質問あればじゃんじゃんしてください。このあと座学形式で説明した後に実際機材に触れてみようと思ってるので、質問はそのときでも大丈夫です。僕だけじゃなくて、みんなのそばにたくさんの先輩がいると思うので、遠慮せず聞いてください」
今日の講習会は、3年生の先輩が教えるのではなく2年生が教える形をとっている。
「ということで、機材初心者編はじめます。説明担当する心理学部心理学科2年の成瀬陽介です。気軽に陽って呼んでもらえたら嬉しいです。で、こっちにいるのが」
「え、…え、わたし? あ、えー…っと。同じく心理学部学科2年生の椿小晴です。よろしくお願いします」
へらりと笑うが、たぶん顔は引き攣っている気がする。
(振ってくるなんて聞いてないよ)
ちらりと陽介を見ると、意図が伝わったのか「ごめんごめん」という顔と手で謝られた。
講習会は順調に進み、座学は10分くらいで終了した。
「口での説明はここまでで、あとは実際に触って慣れていきましょう。ささ、席立って機材のところ集まって」
陽介がマイクを下ろした。電源を切ったものを小晴が受け取る。
「任せるね」
「うん。引き続き頑張って」
陽介と軽く言葉を交わした小晴は、雑用に移った。もう使用しない機材の後片付けや、スクリーンの撤去など、邪魔になりそうなものを一通りまとめてしまう。そんな地味な作業に勤しみながら、小晴は度々講習会の様子を横目で眺めていた。
当初の予定通り1年生たちは2~3人のグループに分かれて、ワイワイと楽しそうに機材の周囲を囲んでいる。その中心にいるのは、陽介だったり拓也だったり、サークル内でも比較的カメラを熟知している人たちだ。
小晴は、機材に関してはからっきしで、1年生とほぼほぼ知識も経験も変わらない。サークル内で小晴が担当しているのは、企画や記事が主だが、どちらかというとこういった裏方のちょっとした雑務をするのが性に合っている。
(あれ、あの子。ひとりかな)
ある程度、片付けも済んで輪の中に入ろうと思ったところで、輪から若干浮いているように見える1年生が目に入った。拓也さんのところは…―――。
相変わらず、女の子ばかり。
(さすが、うちのサークルの人気者)
女の子たちに囲まれないなんてこと、ある筈がないのに、なんでちょっと気にしてるんだろう、と不思議に思う。
(って、そうじゃなくて)
一瞬違う思考に囚われかけて、慌てて本来の目的を思い出す。今、考えるべきは馴染めていなさそうな子の引き取り先についてだ。
(うーん。逆にあっちはガチっぽそうだなあ)
拓也以外のグループに目を向けて、今度は陽介のところを見た。
(陽ちゃんは、…うん。あそこなら馴染めそうかも)
やっと引き取ってくれそうなところを見つけて、小晴は早速行動に出た。
「こんにちは」
小晴は、例の1年生のところにさりげなく近づいて声をかけた。
「あ、うっす…」
「1年生、だよね?」
「はい」
「えーっと。は、るき…はるきくん?、で合ってる?」
ガムテープに貼られた文字を見て、読み方が合っているのか一応確認した。間違えてたら失礼だから、少し恐る恐る尋ねる。
「っ、はい! 先輩は小晴先輩、ですよね! さっき前で」
「あ、そうそう。覚えててくれたんだ」
有難いことだったが、随分と情けない姿だっただろうと力無く笑う。しかし大勢を前にしていないおかげで、さっきより小晴は自然と笑えた。
「! あの、俺。カメラ興味あるんですけど、その。ちょっと出遅れちゃって」
小晴の柔らかな雰囲気に当てられたのか、緊張していた遥生の顔がパッと切り替わるように表情が緩んだ。
「そっかそっか。そしたら、こっち来て」
緊張がほどけて良かった。遥生が発する雰囲気に柔らかさが出たことを小晴も嬉しく思った。さっきより小晴も自然と笑顔になる。
1年生の彼を手招いて、小晴は陽介のところへ案内した。
「急にごめんね。この子、遥生くん。一緒にいれてあげて」
他の1年生と話す陽介に、小晴は声をかけた。すぐに陽介は小晴に気が付いて、話を一旦やめこちらを向いてくれる。
「わあ。はるちゃん、ありがとね。遥生くん、気づかなくてごめん」
「いいのいいの」
「いや、俺が出遅れただけなんで」
遥生は、少し申し訳なさそうな顔をした。きっとすごく根が良い子なんだろう。そんな顔はしなくていいと伝えたくて、小晴は「ほら、もう大丈夫だよ」と笑った。
「っ、ありがとうございます」
ぱああっと太陽が弾けるような眩しい笑顔が遥生から飛び出た。さっきまで少し浮かない顔をしていたから、なんだか嬉しい。小晴も似たような顔になって「うん」と頷いた。
*
みんながそれぞれのグループで、カメラを弄りながら悪戦苦闘している。最初よりも和気藹々とした空気があって、見ていてほっこりした気持ちにさせられた。さっきの一年生も、すでに輪の中に溶け込んでいる。一安心だ。
小晴は、機材に関して教えられることがほぼないため、講習会の邪魔にならないように少し離れたところで全体を見ていた。
「小晴ってさあ。後輩には優しいんだな」
急に人の気配がして驚いて隣を見ると、いつの間にか悠真が隣に立っていた。こちらを見下ろした悠真と目が合う。自然すぎて、気づかなかった。小晴は、少しだけ息をのんだ。
「悠真さん、いつ来てたんですか?」
さっきまでいなかった気がするのに、いつの間に来たんだろう。
「ていうか、え。見てたんですか?」
最初の台詞を思い出して、小晴は若干恥ずかしさから頬を染めた。
「さあ。見てたって言ったら気になる?」
いつもの様に揶揄う気満々の顔がのぞいて、さすがに小晴もムッとした顔を見せた。前回の一件を経て、流石にこれ以上黙って玩具にされるつもりはなかった。
「またそうやって。先輩面してるとか、そういう揶揄いNGですからね。困ってるように見えたから声かけただけで先輩面しようとか、そういうのじゃないですから!」
本当に、本当に、本当だ。これは決して、先輩風を吹かそうと思ってやったことじゃない。
(いや、確かにちょっと格好つけちゃってたかもしれないけど…)
先手必勝とばかりに悠真が言いそうなことを先回りして言ってみたが、言ってる側から穴だらけな否定な気がして一抹の不安がよぎった。先ほどの自分を思い出して、余計頭の中のひとり会話がわあわあと騒がしくなる。
(いやいやいや、そんなことない! ただ困ってたからやっただけ。うん! そう! それだけ!)
そもそも悠真が小晴を揶揄ったりしなければ、余計な心配もないのに、と最終的にむっと口をすぼめた。
「――へぇ、」
小晴の反応に、悠真がほんの少しだけ瞳を細めた。気のせいか悠真の声が、いつもと違うように聞こえた。どこか冷たさが混じっているような、含みがあるような複雑な音だ。
(気のせいかな)
小晴は、不思議そうに悠真を見た。
「別に。ただ、笑ってんなーって思ってさ」
目は合ったが、結局悠真の真意はよくわからない。まるで瞳の奥の感情をわざと隠しているようだ。
そのあと他愛もない会話が続いたが、やっぱりいつも通りの悠真で、結局彼の揶揄いにまんまと翻弄された。
それを遠目から見ていたのは―――。
「…―――ふーん?」
悠真に揶揄われて、小晴が赤くなりながらあたふたと慌てている。小さく呟いた拓也の声は、誰の耳にも届かず静かに足元に落ちていった。
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