第三章 にじむ、青と赤の境界線

第4話・にじんだ色は、消えない

 一限目に取っていた講義が終わった。一斉に教室のあちこちでざわめきが戻ってくる。小晴も広げていたルーズリーフをバインダーにまとめて、机の上を綺麗に片づけているところだった。


「あ、」


 指先に当たった赤と青のボールペンが床に落ちる。


「もう」


 少し面倒に思いながら、小晴は身をかがめて床に転がってしまったボールペンを拾った。カチャリ、と手の中で二つのボールペンが擦り合った音がする。


「よいしょ。そろそろルーズリーフも新しいの買い足さなきゃなあ」


 雑多な音が飛び交う中、独り言が漏れる。シンプルかつ最低限の筆記用具だけを入れたペンケースに、たったいま拾い上げたボールペンをいれる。そんな折に、ふと手のひらの染みに気が付いた。

 どうやら拾ったときに二色のインクがついてしまったようだ。反対の手で擦ると、まだ乾ききっていない色がじわりとにじむ。

 ふぅ、とため息一つ。気持ちを切り替えるように、小晴は中身が詰まったトートバッグを肩にかけた。


(図書館に寄った後、文具屋さん覗いてみようかな。どうせこの後もいっぱい使うだろうし)


 すでに二股に分かれた川のように、他学生たちが教室の扉へと流れていく。その群れの最後尾に小晴もそっと混じって、外へと向かう流れに合流した。



 *



 教室を出た流れのまま、小晴は学内にある図書館へ向かった。図書館の中に足を一歩踏み入れた途端、さっきまでの騒々しさが嘘のように消え、ぴんと張り詰めた空気が肌を撫でた。少しだけ息が詰まるような、けれど心地良い独特な空気が漂う。


 ささやかな物音ひとつでも空間にわんっと響いて――まるで自分の存在が必要以上に大きくなったようで――、萎縮してしまう厳かさが図書館にはあったが、背筋を伸ばさせる緊張感を持つここの空気が小晴はなんだかんだ好きだった。


 柔らかな日差しを取り入れた大きな窓。そこに広がる自習スペース。疎らだが、多種多様の学生が思い思いに机に向かっているのが見える。小晴はその横を通りすぎ、自分が閲覧したい資料が置かれたブースへと一直線に進んだ。


 心理学が学部として成り立っているうちの大学では、心理学に関する資料がある程度取り揃えられている。しかし図書館の中でも1,2を争うほど目立たない、奥まったスペースに並んでいるそれらを見ると、小晴はまるで自分のようだと思う。


 気になる本をいくつか手に取り、いつもの通り秘密の隠れ家のように置かれたソファーへ向かった。今まで何度も利用してきたが、ここで人と遭遇したことはほとんどない。この時小晴は、今日もそこに誰もいないだろうと無意識に思っていた。


(あれ、珍しい。人がいる)


 いつもだったら誰もいない、小晴だけの空間。しかし、今日は先客がいた。控えめなラウンドサイドテーブルには、開かれていない3,4冊の積まれた本と黒に塗りつぶされた真っ暗な液晶のタブレット。どれも読まれたような形跡はなく、まるで誰かがただそこに置いていっただけのようだった。肝心の不意打ちの先客は、ソファーにだらんと四肢を伸ばして寝転んでいる。


(邪魔しちゃったら悪いな)


 たぶん相手は寝ている。相当、疲れているのだろう。こんなところまで来て寝ているのだから、誰にも邪魔をされたくないはずだ。

 小晴は、気づかれないようにその場を後にするつもりだった。そろりと退散しようと、一歩足を後ろに引く。そのまま背を向けて立ち去る。小晴の頭の中では、なんの問題もなく遂行されたミッションだったはずが―――。


 ガンっ、と響く音。


(あ、…)


 やっちゃった。振り向きざま、近くにあった本棚に肩にかけていたバッグをぶつけてしまった。中身が詰まっているせいか、この空間のせいか、思いのほか大きな音が反響する。一瞬で小晴の表情が、苦く歪んだ。


「ん…?」


 ソファーの上から、微かに寝起きの声が聞こえた。彼が身じろぐと衣擦れの音が小晴の鼓膜を揺らす。のそりと身体を起こした相手の視線がこちらに向く。その相手が誰か気づいたときには、小晴は完全に申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。


「っ、すみません。邪魔しちゃって」


 今日は珍しく、黒縁眼鏡をかけていたから気が付かなかった。小晴も所属するサークルの代表である片倉拓也、その人だったのだ。


「あれ、小晴ちゃん?」


 陽介や怜央と一緒にいるせいか、悠真や拓也に名前だけはしっかりと覚えられている。顔と名前が一致していて、なおかつ下の名前を気軽に呼んでもらえるほどの仲の良さだとは流石に思っていない。


 ただのおこぼれで得た私の立場はきっと「運がいい」とか「ラッキー」だとか、そんな言葉で表されるのだろう。たぶん中には羨ましく思う人もいて、そんな人たちは私のことを陽ちゃんと怜央くんの隣にいるその他大勢の中のひとりとしか見てないんだろう。悲しいような、ちょっとムカつくような。


 だけど実際、名前を呼ばれるだけでドキッとしてしまう自分がいるのがちょっと悔しい。結局私も憧れているその他大勢の中のひとりにしか過ぎない。


「昨日、飲み来てたよね」

「あ、はい」

「小晴ちゃんともっと話したかったな、なーんて」


 やっぱり認識はされているんだと思った直後に、予想外の台詞を言われて固まった。否応なく、小晴の頬がほんの少し色づく。


「あれ、もしかしてドキっとしちゃった?」


 無防備だった心にズドンと軽い冗談が当たった。陽介たちといる時にたまにあるジョーク、揶揄われただけだと分かっているのに、普段そばにいるみんなが居ないせいで油断していた。心臓が急に大きく音を立てて、体が勝手に反応する。


(……、どうしよう。顔、熱い)


 小晴は、否定なのか熱を振り払うためなのか、勢いよく顔を横に振った。


「なにその反応。小動物みたいでかわいいね」

「っ、」


 小さく笑った拓也を目の当たりにして、反射的に視線を逸らした。いつも見る綺麗な笑みとは違う無防備な表情をそれ以上直視できなかった。


(寝起きだからかな。なんかいつもよりちょっと…)


 笑った顔も、普段と違う眼鏡姿も全てが破壊的だ。


「お、お邪魔してすみません。私、戻ります!」


 勢いよく頭を下げて踵を返す。小晴は、いつもよりすこし速足でその場を立ち去った。逃げた、んだと思う。


(もう。ちょっと。熱引いてってば)


 頬が熱い。

 かっこいいのは知ってた。

 憧れも、たぶんしてた。

 でも、今のは違う。今のは何かの間違い。


(わたし、これは絶対だめなやつ!!)


 お願い。熱、はやく冷めろ。



 *



 逃げるように図書館をあとにした小晴は、気持ちが落ち着かないまま学内に設置されたキャンパスショップに来ていた。


 ここには、色んなものが取り揃えてあり大学で必要なものは大抵見つけられる。ほしいものはルーズリーフとすでに決まっているため、買い物はすぐに終わる。


 しかし、小晴はノート類が並んだ棚の前で、ぼーっと佇んでいた。もう頬の熱は取れたけれど、脳内を駆け巡る動揺はいまだ落ち着きを見せない。脳内にリフレインするのは、さっき聞いたあの声。あの笑い方。


 笑った時にのぞく少年っぽい表情や普段かけない黒縁眼鏡の姿は、まるで彼のプライベート空間に誘われたような、変な気分を起こさせる。


 きっと、そのせいだ。いつもと違う動揺をしてしまったのは。結局読みたかった本だって、借りもせず全部返却棚へ吸いこまれた。


「私ってばかだ…」


 荷物をぶつけたことか、動揺したことか、本を借りなかったことか。どれもが正解でどれもが不正解だった。弱音のような、泣いているような声は若干震えていた。

 目的だった商品をやっと手に取る。はあ、と自然と溜息がこぼれた。


「ほんとばか」


 そしてぽつりと、また同じセリフを小晴は呟いた。





 やっと落ち着きを取り戻せた小晴は、自分のスマホに届いている新着メッセージを開いた。朱音からだった。すでにお馴染みのメンバーが集まっているらしい。小晴も早くおいでと言った誘いのLIMEだった。


〈ルーズリーフ買ってた〉

〈今いくね〉


 短いメッセージを送り、気合を入れ直すために短く息を吐く。


(だいじょうぶ、だいじょうぶ。もうへいき)


――そう、自分に言い聞かせるように、小晴はスマホをポケットにしまった。

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