第6話:温かな朝



 朝の光が、葉の隙間から静かに差し込んでいた。

 露に濡れた草が淡く輝き、涼しい空気の中で小鳥のさえずりが遠くに響く。


 イズミは、ゆっくりと目を開いた。


 まぶたが重い。

 身体が、自分のものではないように鈍い。


 最初に映ったのは、緑に切り取られた空だった。

 湿った土と草の匂いが鼻をくすぐり、ここがまだ森の中だと理解する。


 身体を起こそうとした瞬間――

 鋭い痛みが走った。


 「……っ」


 低く息を漏らし、反射的に肩へ手を伸ばす。

 そこには、白い布が巻かれていた。脚も同じだ。

 包帯は赤く染まり、すでに乾きかけている。


 記憶が、ゆっくりと繋がる。


 ――トーンヴェイルの森。

 ――任務。

 ――フェイビーストの襲撃。


 周囲を見渡す。

 血も、死体も、カズマの姿もない。


 ……安全な場所に、移されたのか。


 破れた服を見下ろし、イズミは小さく息を吐いた。

 カズマは、きっと近くにいる。


 痛みをこらえ、イズミは立ち上がる。

 脚が震え、木の幹に手をついて呼吸を整える。


 地面に、点々と続く血の跡。


 ――昨夜、運ばれた時の……。


 それを辿り、ゆっくりと歩き出す。

 一歩ごとに痛みが走るが、止まらない。


 朝の森は、驚くほど穏やかだった。

 光が差し、葉が輝き、すべてが平和に見える。


 ――昨夜、ここで死にかけたなんて、嘘みたいだ。


 やがて、視界の先に人影が見えた。


 カズマだった。


 フェイビーストの亡骸を一箇所に集め、静かに立っている。

 白いシャツは汚れ、血の色が残っていた。

 疲れた眼差し。それでも、揺らぎはない。


 気配に気づいたカズマが振り返る。


 「起きたか」


 その声に、わずかな安堵が混じる。


 イズミは頷いた。

 「……まだ、立てる」


 カズマは傷を一瞥し、軽く息を吐く。


 「動脈は無事だ。出血が多かっただけだな」


 イズミは小さく笑った。

 「……もっと、反応できれば」


 カズマは首を振る。


 「数がおかしかった。お前のせいじゃない」

 「生きてる。それで十分だ」


 その言葉が、胸に落ちた。


 少し歩いた先で、二人は木の根元に腰を下ろす。


 「朝飯だ」

 「倒れられても困る」


 乾いたパンを分け合い、無言で齧る。

 森の音だけが、穏やかに流れる。


 やがて、イズミが口を開いた。


 「……昨夜、何が起きた?」


 カズマは軽く笑う。

 「お前が死にかけて、俺が片付けた。それだけだ」


 イズミは視線を落とす。


 「……怖かった」

 「どうすればいいか、分からなかった」


 カズマは空を見上げた。


 「恐怖は消えない」

 「だが身体は覚える。考える前に動くようになる」

 「それが、実戦だ」


 イズミは、静かに頷いた。


 立ち上がったカズマが言う。


 「この件、調べる」

 「この森は安全区域だ。昨夜のは異常だ」


 イズミも、ゆっくりと立つ。


 「……俺も行く。ゆっくりでいいなら」


 カズマは一瞬だけ見て、頷いた。


 二人は、再び歩き出す。

 穏やかな朝の森の奥へ。


 昨夜の異常を胸に抱えながら――。


---


 カズマはフェイ・ビーストの亡骸の前にしゃがみ込み、手袋越しに粗い毛皮へ触れた。乾いた血のこびりついた牙をなぞり、鋭い視線で一体ずつ観察する。その背後で、イズミは木に寄りかかり、重たい身体を支えながら静かに見守っていた。


 「ダスクレイス・ファングだ」

 カズマは低く呟く。「南部の森に棲む種だ。毛並みが濃い。……しかも群れで動く」


 彼は空を仰ぎ、木々の隙間から覗く朝の光へ視線を向けた。

 「ここまで来る理由がない。追い出されたか……何かに強制されたかだ」


 「迷っただけじゃ……?」

 イズミがかすれた声で尋ねる。


 カズマは首を横に振った。

 「フェイ・ビーストは領域を外れない。ここは安全区域だ。――ネヴァーランドの南で、何かが動いている」


 森を抜ける風が、血の匂いを運んだ。その静けさは、嵐の前触れのように重かった。


 カズマは片膝をつき、地面へ手を当てる。空気が震え、風が渦を巻いた。柔らかな土が音もなく裂け、自然な墓穴が姿を現す。


 「敬意は忘れない」

 そう言って、彼は亡骸を一体ずつ丁寧に納めていった。


 最後の一体を置き終えると、再び地へ触れる。風が土と葉を集め、穴は静かに閉じた。痕跡は何一つ残らない。


 「帰ろう」

 血に染まった外套を手に取り、カズマは振り返った。「傷を放置できない」


 イズミは頷き、痛む脚を引きずりながら立ち上がる。


 森を抜ける道は静かだった。朝露に濡れた土を踏みしめ、二人は並ばず、しかし確かな距離で進む。イズミは助けを拒み、自分の足で歩いた。


 やがて木々が途切れ、街道が姿を現す。轍の残る道。人の気配。生の匂い。


 「もう少しだ」

 カズマが東――エヴァードーンの方角を見て言った。


 昼近く、巨大な門が二人を迎えた。

 「カズマ……? その怪我は……」

 衛兵の声が揺れる。


 「スロンヴェイルでフェイ・ビーストに遭った」

 それだけ告げ、彼らは通された。


 街へ入ると、視線が集まる。血に染まった服、包帯の肩。囁きが広がる。


 それでもカズマは歩みを止めない。

 イズミも俯かず、前を見た。


 昨夜、彼は理解したのだ。

 この世界は美しいだけではない。

 痛みも、恐怖も、死も――すべてが現実だと。


 喧騒の中、二つの影はギルド本部へと向かっていった。

 ネヴァーランドの静かな歯車が、確かに軋み始めていることを知らぬまま。


---


 ギルド本部の午後は、いつも通り穏やかだった。高い天井と大きな窓から差し込む光が、石床と木壁を暖かく照らす。長机では数人のメンバーが報告書を書きながら談笑し、グラスの音と焼きたてのパンの香りが空間を満たしていた。


 ――扉が開くまでは。


 カズマの足音が静かに響き、その背後からイズミが現れた。包帯に覆われた身体、裂けた服、血の跡。空気が一瞬で凍りつく。


 ペンを走らせていたナツメが、最初に気づいた。

 手から筆記具が落ちる。


 「  ……イズミ……? 」


 声はかすれ、椅子が音を立てて倒れそうになる。口元を押さえ、動けずに立ち尽くした。


 管理机からチサトが即座に立ち上がる。

 「カズマ、イズミ……何があったの!?」


 「スロンヴェイルでフェイ・ビーストに遭った」

 カズマは淡々と答える。「イズミは負傷したが、命に別状はない」


 だがチサトは知っている。

 “大したことない”と彼が言う時ほど、危険だということを。


 周囲のギルド員たちも次々と立ち上がり、空気から冗談が消えた。

 何かがおかしい――誰もがそう悟っていた。


 「今すぐ来て」

 チサトは迷いなくイズミを支え、東棟へ向かう。


 静かな石の廊下。

 治療室の扉が開き、薬草の香りが広がる。


 ナツメは後ろをついてきた。

 何も言わず、ただイズミの背中を見つめ続けて。


 その頃、ホールでは緊張が膨らんでいた。


 「……カズマ?」

 ユカリの声が揺れる。血に染まった彼の姿は、あまりにも異様だった。


 レンとケンジも集まり、空気が重くなる。


 そこへ階段から、カイトが降りてきた。

 「説明しろ。今すぐだ」


 「深夜、スロンヴェイルで群れに襲われた」

 カズマは続ける。「だが問題は種類だ。南部の森の個体が、ここにいた」


 沈黙。


 「……誘導、あるいは追い出された可能性が高い」

 カズマの言葉は、警告だった。


 カイトは一瞬目を伏せ、低く言う。

 「備えが必要だな」


 誰も反論しなかった。


 ――治療室。


 チサトの手から淡い光が溢れ、イズミの肩へ染み込む。

 痛みが、ゆっくりと引いていく。


 「毒は止まってる。命の心配はないわ」


 その言葉に、空気がわずかに緩む。


 ユカリが膝をつき、真剣な目で言った。

 「生きなさい。まだ終わるには早いでしょ」


 カイトたちも合流し、状況を確認すると、静かに部屋を後にした。


 「二日は安静。訓練は禁止」

 チサトの命令に、誰も逆らわない。


 やがて室内には、イズミとナツメだけが残る。


 沈黙。


 「……無理して残らなくてもいい」

 イズミが静かに言う。


 ナツメは俯いたまま、答えない。


 扉が開き、シロガネとリュトが顔を出した。


 「よぉイズミ! もう少しで伝説だったな!」

 軽口だが、安堵が滲んでいる。


 「……それは楽すぎる」

 イズミは小さく笑った。


 「なぁ、死んだら地球に戻るのかな?」

 リュトの一言で、空気が凍る。


 「リュト」

 シロガネが即座に制した。


 「……悪い」


 イズミは首を振る。

 「気にするな」


 話題を変える。

 「昨日の図書館は?」


 「特に成果なし。リュトは寝てた」

 「いや、椅子が快適でさ」


 わずかな笑いが生まれる。


 ナツメの表情も、ほんの少し和らいだ。


 窓の外では、夕暮れが伸びていく。


 この世界は、優しくはない。

 だが――今、この場所で。


 彼らはまだ、生きている。

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