第5話:ソーンヴェイルの森の襲撃
一月半が過ぎていた。
朝のギルド本部は、いつもより静まり返っている。広いホールには人影もまばらで、残っている数人のギルド員が小声で任務の相談をしているだけだった。
依頼掲示板の前に、カズマは腕を組んで立っていた。普段は気だるげな表情だが、今日はわずかに苛立ちが滲んでいる。
そこへ、イズミが現れる。
「……イズミ」
「今日も遅刻だな」
イズミは答えず、無表情のまま歩み寄った。言い訳をする気もない。
カズマは小さく舌打ちする。
「だからナツメが、毎回お前を待つ羽目になるんだ」
だがイズミは気にも留めなかった。
掲示板へ視線を移し、紙切れを流し読む。
――待たれるくらいなら、その方が楽だ。誰も追わなくていい。
視線が一枚の依頼書で止まる。
カズマ/イズミ
《依頼:ソーンヴェイルの森 調査》
ソーンヴェイルの森。
エヴァードーン西方に広がる、大樹の多い森だ。危険地帯ではないが、奥深く、人の立ち入りは少ない。
「今日の任務だ」
カズマは頭の後ろで手を組む。
「出発前に補給だな。道中用にパンを買おう」
イズミは短く頷いた。
――サヤカのパン屋に入ると、焼きたての甘い香りが鼻をくすぐった。
木棚には様々なパンが並び、朝の光を受けている。
「朝から任務?」
サヤカが柔らかな笑顔で尋ねる。
「ソーンヴェイルだ」
カズマは簡潔に答えた。
サヤカは慣れた手つきで保存の利く乾パンを包む。
イズミは無言で受け取り、腰袋へ収めた。
「気をつけてね」
カズマは軽く手を振り、イズミは小さく頭を下げた。
――街を抜け、巨大なエヴァードーンの城門をくぐる。
衛兵は二人を一瞥しただけで通した。
外へ出ると、視界が一気に開ける。
風に揺れる草原、その先に見えるソーンヴェイルの森の影。
イズミは小さく息を吐いた。
ここが異世界だと分かっていても、この景色には不思議と飽きなかった。
「住民からの報告だ」
歩きながらカズマが言う。
「正体不明の“違和感”。姿は見えないが、近づきたくない空気があるらしい」
「気のせいかもな」
「そうだといいがな」
――森に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
冷たく、湿り気を帯びた空気。
木々の隙間から差す光が、地面に揺れる影を落とす。
イズミは周囲の木々を見上げた。
異様に太く、根が地表を這っている。
「……この木」
「普通じゃないな」
カズマは一瞬だけ足を止める。
「エルダーウッドだ。成長は遅いが、ネヴァーランドでも最古の樹だ」
幹には、かすかに脈打つような模様が走っている。
「魔力を……?」
「蓄えるんだ」
「だから、この森は長く“生きてる”」
イズミは無言で頷いた。
この森は、ただの森ではない。
「だが考えすぎるな」
カズマが前を向く。
「今は、何かが“いるかどうか”だけを確かめる」
二人は再び歩き出す。
木々の奥――
ソーンヴェイルの森は、静かにその深部を隠していた。
---
陽光は次第に弱まり、エルダーウッドの高木が重なり合う葉に遮られていく。
スローンヴェイルの森は広大だが、彼らが進んでいる道はまだ住民が行き来する範囲内だった。枝の間を抜ける風が、湿った土と乾き始めた葉の匂いを運んでくる。
巨大な木の根元で、イズミとカズマは背を預けるように腰を下ろした。
数時間歩き続け、短い休憩を取ることにしたのだ。イズミは腰袋からパンを取り出し、無言でかじる。カズマも同じようにパンを口に運び、周囲を静かに見渡していた。
「この森、やっぱり広いな」
イズミがぽつりと呟く。
「でも、住民の報告があった周辺だけを調べていても、怪しいものは見つかりそうにない」
カズマは小さく頷いた。
「そうだな。でも、何かあるなら遅かれ早かれ姿を現す。大事なのは油断しないことだ」
周囲は穏やかだった。
遠くで聞こえる物音も、脅威ではなく森の生き物たちの自然な動きに過ぎない。木々の間を、いくつかのフェイビーストが姿を見せる。
淡く光る角を持つ鹿のような個体が、静かに駆け抜けていった。
「人間の存在を気にしてないみたいだな」
イズミが言う。
「フェイビーストは理由もなく人を襲わない」
カズマは肩をすくめた。
「この森の守り手みたいなものだ。均衡が崩れれば、真っ先に反応する」
イズミは周囲を改めて見回す。
住民が感じたという“異変”は、まだどこにも見当たらない。
「……気のせいだったのかもな」
カズマは答えず、前方の木々を細めた目で見つめていた。
やがて二人は立ち上がり、さらに奥へと歩き出す。調査は、まだ終わっていない。
やがて森は夕暮れへと移ろい、光は細く、影は長く伸び始めた。
空気が冷え、昼とは違う気配が漂い始める。
カズマが足を止め、空を見上げた。
「野営場所を探そう。夜の森は危険だ」
イズミは頷く。
夜になると、昼には姿を見せない危険なフェイビーストが動き出す。
深く進めば進むほど、遭遇の可能性は高まる。
「暗くなる前に安全な場所を確保する」
しばらく歩いた末、巨大な木の下に辿り着いた。
根が複雑に絡み合い、雨や夜露を防げる空間がある。
「ここなら悪くないな」
イズミが周囲を確認する。
カズマは幹を叩き、強度を確かめた。
「視界も悪くない。ここにしよう」
イズミが地面を整え、カズマは剣を点検する。
夜の森の音が、ゆっくりと姿を変え始めていた。
カズマが片手を上げると、指先に緑色の魔力が灯った。
小さな火はすぐに焚き火となり、温かな光が二人を包む。
「昼に何体か見たな」
イズミが口を開く。
「危険そうなのはいなかったけど」
「確かに」
カズマは頷いた。
「気になるなら、説明しようか」
「さっきの鹿みたいなのは?」
「シルフハートだ。魔力の均衡が高い場所に住む。危険を感じると霧に溶ける」
イズミは思い出す。
確かに、あの姿は一瞬で消えた。
「紫の毛をした狼は?」
「ダスクレイス・ファング。夕暮れ時の狩人だ。集団になると厄介だ」
イズミは静かに頷いた。
焚き火の音だけが、夜を満たしていく。
深夜。
森は完全な静寂に包まれていた。
「カズマ」
イズミは焚き火を見つめながら言った。
「フェイビーストが襲ってきたら……どうする?」
カズマは目を開き、息を吐く。
「原則、殺さない。ただし例外はある」
彼は指を折りながら説明する。
「人命を脅かす場合。暴走している場合。均衡を崩している場合」
「……異常が原因なら?」
「その時は、討伐もやむを得ない」
焚き火が小さく爆ぜる。
「一番危険なのは、闇に侵された個体だ」
イズミは背筋に冷たいものを感じた。
「闇……呪いとか?」
「それだけじゃない」
カズマは森を見つめる。
「人の介入、場所の歪み……原因は様々だ」
「……見たことあるのか?」
「ある」
短い沈黙。
「正気を失い、止める術がない」
イズミは息を呑んだ。
闇の中の影が、今までより濃く見える。
「俺は寝る。最初の見張りは任せた」
「任せてくれ」
「前みたいに寝るなよ」
イズミは小さく笑った。
「もう失敗しない」
カズマはそれだけ言って目を閉じた。
イズミは深く息を吸い、森を見据える。
焚き火の光が揺れ、夜はまだ長い。
---
深夜はすでに極まり、森は完全に夜に沈んでいた。
星々は頭上にあるはずだが、重なり合う枝葉に遮られ、その存在をほとんど感じさせない。冷たい夜風が衣服の隙間をすり抜け、焚き火は赤い残り火を残すだけとなっていた。
イズミは木の幹にもたれ、赤く燻る炭を見つめていた。
森は静かすぎるほど静かだ。風に揺れる葉擦れの音だけが、かろうじて世界の動きを伝えている。
――なぜ、俺はここにいる?
答えのない問いが、また頭を巡る。
この世界に“役割”があるのなら、自分はただの駒なのか。
もし終わりがあるのなら、この世界を受け入れてはいけないのか。
だが――
幻にしては、あまりにも現実すぎた。
風が強まった。
その瞬間、イズミは違和感を覚える。
……グルル……。
低く、長い唸り声。
背筋が一気に張り詰めた。
耳を澄ますと、別の方向からも音が重なる。
複数だ――。
イズミは迷わず剣に手を伸ばし、音を立てずに引き抜いた。
弱い火の光が、刃に淡く反射する。
「……カズマ」
反応はない。
イズミは肩を掴み、少し強く揺らす。
「起きてくれ。何かいる」
カズマは瞬時に目を開いた。
寝起きの気配はなく、イズミの表情を見てすぐに状況を理解する。
イズミが視線で森を示す。
再び唸り声。
枝が折れる音が、確実に近づいてきていた。
カズマは短く息を吸い、剣を構える。
二人は並び、闇を正面に据えた。
焚き火はほとんど光を失い、闇が円を描くように迫る。
足音は重く、規則的だ。
イズミは剣を握りしめる。
――実戦は、初めてだ。
心臓が早鐘を打つ。
手のひらが冷たい汗で濡れる。
――ここで死んだら?
――終わりなのか?
――それとも……。
考えが途切れる。
バキッ、と近い音。
影が動いた。
「カズマ……あれは……」
「フェイビーストだ」
低く、しかし即断の声。
「しかも夜行性。……この森にはいるはずがない」
異常。
その一言が、空気をさらに重くする。
足音が迫る。
数は、二――いや、それ以上。
「イズミ」
カズマが静かに問いかける。
「怖いか?」
イズミは一瞬迷い、喉を鳴らした。
「……少し」
カズマは否定しない。
「なら、訓練通りに動け」
訓練――
その言葉が、逆に現実を突きつける。
これは訓練じゃない。
失敗すれば、死ぬ。
胸が詰まり、呼吸が浅くなる。
その瞬間――
「グラァァァッ!!」
闇の中で、赤い光が二つ瞬いた。
黒い毛並みの巨大な影が、地を蹴る。
速い――!
イズミが動くより先に、カズマが踏み込んだ。
閃光。
――ザンッ!
血が弾け、獣が悲鳴を上げる。
黒い狼は地面に叩きつけられ、動かなくなった。
息を呑む暇もない。
別の影が跳ぶ。
カズマは体を反転させ、迷いなく振り抜く。
――ザンッ!
空中で切断された獣が、重い音を立てて落ちる。
血が草を染め、夜に生臭い匂いが広がった。
静寂。
イズミはその場に立ち尽くしていた。
指先が、わずかに震える。
カズマは剣を下ろし、イズミを見る。
無傷かを確かめる視線。
だがイズミは答えられなかった。
視線は、倒れたフェイビーストに縫い付けられたまま。
流れる血。
動かない体。
――これが、本物の戦い。
胃の奥が、静かにせり上がった。
---
イズミは立ち尽くしたまま、荒い息を吐いていた。
カズマが二体のフェイビーストを瞬時に斬り伏せた光景が、まだ頭から離れない。
――だが、体は待ってくれなかった。
闇の奥から、影が弾けるように飛び出す。
速い――!
反射的に剣を振る。
――ブンッ!
空を切った。
次の瞬間、鋭い顎が脚に食い込む。
「――ッ!!」
激痛。
視界が白く弾け、イズミの体が前に崩れる。
さらに――
横から別の影。
肩に、噛みつかれた。
「ぐぁっ……!」
骨に届くような痛み。
意識が一瞬、遠のく。
だが、カズマが動いた。
――ザンッ!
噛みついていた獣が吹き飛び、地面に叩きつけられる。
血が散り、イズミの体を濡らす。
カズマは即座にイズミの前に立ち、片手で肩を押さえた。
「イズミ! 意識を保て!」
声は低く、揺るがない。
イズミは歯を食いしばる。
血が流れ、視界が揺れる。
――終わらない。
闇の中に、赤い光が増えていく。
数が、明らかに多い。
カズマは剣を構えたまま、舌打ちした。
「……多すぎるな」
イズミは剣を掴もうとしたが、力が入らない。
胸が震え、恐怖が込み上げる。
「……カズマ……」
その声に、カズマは一瞬だけ視線を向ける。
次の瞬間――
森が唸った。
四方から、フェイビーストが一斉に躍り出る。
理性のない突進。
ただ、喰らうためだけの群れ。
カズマは静かに息を吐いた。
「……仕方ない」
空気が変わる。
圧が、落ちた。
目に見えない力が、カズマの周囲に広がっていく。
風が渦を巻き、柔らかく――しかし、刃のように鋭く。
イズミは、痛みの中でそれを感じた。
――静かだ。
不自然なほどの静寂。
時間が、止まったようだった。
次の瞬間――
倒れていた。
何が起きたのか、理解できない。
気づけば、獣たちは地に伏し、血に沈んでいる。
生き残った数体は、尾を立て、後退していく。
恐怖。
本能が、近づくなと叫んでいる。
夜気すら、冷え切っていた。
カズマは、その中心に立っていた。
動かず、息も乱れず。
抜き身の刀が、淡い光を残している。
――誰も、もう襲わない。
静寂が戻る。
その中で、イズミは地面に倒れたままだった。
呼吸が浅く、意識が薄れていく。
視界の端に、カズマが駆け寄る影。
「耐えろ」
声だけが、はっきりと聞こえた。
カズマは膝をつき、迷いなく包帯を取り出す。
傷を、強く押さえる。
痛みが走る。
叫びたいのに、声が出ない。
血は止まらない。
脚も、肩も。
体が、重い。
「…カ…ズ……」
言葉は、途中で途切れた。
闇が、静かに降りてくる。
最後に感じたのは――
必死に血を止めようとする、カズマの手の温もりだった。
そして、世界は暗転した。
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