第2話:イズミの紹介

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  あの本を見つけた瞬間から、俺の人生は大きく変わるのだと、そう思っていた。


  けれど――。


  この世界は、想像していたよりも、ずっと美しかった。


  澄み渡る青空。いくつかの雲が列をなして静かに流れ、視界の先には草原がどこまでも広がっている。山の麓には鬱蒼とした森が連なり、灰色の巨大な山脈が世界を囲むようにそびえ立っていた。遠くには雪に覆われた峰もあれば、雲に隠れてその姿を曖昧にした山もある。


  低く空を舞う鳥たちは、まるで綿の塊でできているかのように丸い体をしていた。羽毛はあまりにも柔らかく、肉眼ではほとんど輪郭を捉えられない。ただ、光を反射する微かな煌めきだけが、彼らの存在を教えてくれる。小さな翼が忙しなく羽ばたくたび、空気に淡い軌跡が残り、光の欠片が踊るように散っていった。


  ――ここは、誰もが知っている「異世界」。


  そして今、俺はその中にいる。


  カズマは、俺がこの世界に来てからずっと一緒にいるギルドの一員だ。彼は俺のことを弟子だと言った。正確に言えば、それは“かつてのイズミ”に向けられた立場だったのだろう。


  本来の持ち主――この身体の本当のイズミは、もういない。


  長野の街外れで暮らしていた俺が、この身体に入り込み、こうして別の世界で生きている。


  それでもカズマは、何も変わらず俺を導いてくれた。まるで、すべてを最初からやり直すかのように、基礎から丁寧に。


  俺は地球では十七歳だった。しかし、カズマの話では、この世界のイズミはすでに二百四年ほど生きているらしい。ネヴァーランドでは寿命が長いこと自体は珍しくなく、成長もまた非常に緩やかだ。


  それよりも、俺の興味を引いたのは、この世界の「整い方」だった。


  あまりにも自然で、あまりにも現実的で――欠陥が見当たらない。


  地球にいた頃の俺は、アニメやファンタジーゲームが好きだった。だが同時に、それらを「完璧な幻想」だと持ち上げる風潮には、ずっと違和感を抱いていた。


  ハーレムもの。

  あるいは、一人の女性が欲望を満たすためだけに用意された存在。

  都合よく味方に傾く幸運。

  最初は素晴らしかったのに、続編では利益のために物語が歪められていくシリーズ。

  そして何より――理由もなく最強になる、いわゆる“インスタント無双”。


  馬鹿げている。


  そんなものを本気で面白いと思えるのは、現実を知らないか、思考を放棄した人間だけだ。俺は知っている。何事も、積み重ねなしに得られる力など存在しない。


  だからこそ。


  この世界に転移してきた「主人公」である俺は、俺自身のやり方で進む。


  ソロプレイヤーとして。


  仲間を集めて魔王討伐?

  ……冗談じゃない。


  魔王を倒すなら――俺一人で十分だ。


  それが、イズミとして生きる俺の、最初の決意だった。


/////


  【エヴァードーン王都/この世界に来て三日目】


  朝の陽光を浴びながら、イズミとカズマはギルドの建物へと歩みを進めていた。エヴァードーン王都の中央に堂々と佇むその建物は、堅牢な石造りの壁を持ち、重厚な木製の扉には剣と盾の紋章が彫り込まれている――それは、ここに集う冒険者たちの誇りと名誉の象徴だった。


  中へ足を踏み入れると、いつもより静かな空気が広がっていた。数人のギルドメンバーが依頼掲示板の前に立ち、今日の任務について小声で話し合っている。会話は控えめで、紙をめくる音や木床に響く足音が、かすかに混じるだけだった。


  受付カウンターの向こうから、ラベンダー色の髪をした少女が二人に視線を向ける。


  「おかえりなさい」


  チサトは、いつも通りの落ち着いた声でそう告げた。


  カズマは軽く笑みを浮かべ、歩み寄る。

  「よう、チサト。ただいま。無事に戻ったぜ」


  「それで、成果は?」

  チサトは即座に問い返した。表情はあくまで事務的だ。


  カズマは腕を組み、わざと少し考える素振りをしてから、満足げに口を開く。

  「予想通りだ。王様はイズミを気に入った。しかも、ちゃんと褒美までくれた」


  チサトは小さく頷き、イズミの方へと視線を移す。

  「そう。それは良かったわ。十分に良い印象を与えた、ということね」


  声色は淡々としていたが、その瞳にはわずかな興味が宿っていた。


  イズミは深く踏み込まず、ただ小さく頷くだけで応えた。


  カズマはそれ以上話を続けず、イズミに手振りでついてくるよう促す。二人はいくつかのテーブルの間を抜け、ギルド内の一角にある巨大な壁の前で足を止めた。


  壁一面を覆うのは、ネヴァーランド全土を描いた古い地図だった。


  イズミは思わず立ち止まり、その地図を見つめる。木板に打ち付けられた粗い布はくすんでいるが、丁寧に扱われてきたことが分かる。やや色褪せた黒いインクの線が、果てしない大地を形作り、都市、村、自然領域を示す記号が点在していた。


  地図の中央には、はっきりと二つの大きな名が記されている。

  ――エヴァードーン(Everdawn)

  ――ヴァロリア(Valoria)


  人間の二大王国だ。


  それ以外の大部分は、緑。山脈、森林、草原がほぼ全域に広がり、海や海岸線の存在を示すものはどこにもない。いくつかの川が大地を縫うように流れ、都市と村を自然な形で結びつけている。移動手段を示すのは、丘陵の間にかろうじて描かれた細い道だけだった。


  イズミは眉をひそめ、いくつかの地名に目を走らせる。

  「エヴァードーン」――今、自分が立っている都。

  「ヘイヴンウッド(Havenwood)」――西に広がる大森林。

  さらにその奥には、小さな丘に囲まれた「オークンシールド(Oakenshield)」。

  そして、西端に記された「ドリームフィールド(Dreamfield)」――果ての見えない草原。


  広大だ。

  だが同時に、どこか空虚でもある。


  そんな印象を、イズミは抱いた。


  隣に立つカズマが、地図を一瞥しながら口を開く。

  「気になるか?」


  その声音は軽く、イズミの考えを見透かしているようだった。


  「……ああ。海がない」

  イズミは低く答える。


  カズマは小さく頷く。

  「そういう世界だ。あるのは、どこまでも続く大地だけ」


  イズミはすぐには返事をしなかった。

  海のない世界――その事実を、まだ頭のどこかで噛み砕こうとしていた。


  しばらくして、カズマがイズミの肩を軽く叩く。

  「行くぞ。俺たちの依頼を確認しよう」


  イズミは小さく頷き、今は好奇心を脇に置いて、カズマの後を追った。


  ――依頼掲示板は、大きな木製の板で、整然と張り紙が並んでいる。黒いインクで書かれた文字はどれも明瞭で、すでに担当者の名が記され、印を押された依頼も少なくない。


  イズミは黙ったまま掲示板を見つめ、昨日カズマが言っていた言葉を思い出す。

  ――依頼は、事前に割り振られている。


  「ほら、これだ。俺たちの名前がある」


  カズマが新しい一枚を指差す。


  イズミはその先を目で追い、依頼内容を読み取った。


  カズマ

  イズミ


  依頼内容:

  《星の森に出没する野生フェイビーストの捕獲 ― 星果祭のため》


  カズマは再びイズミの肩を叩き、にやりと笑う。

  「面白そうだろ?」


  イズミは小さく息を吐いた。


  ――どうやら、今日も忙しい一日になりそうだ。

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