第29話

ユリウス様が、その寂しい背中を庭園の向こうへと消し去った後。

わたくしとアレクシス様の間には、穏やかでしかし、どこか甘い緊張感をはらんだ静かな時間が流れていた。

お互いの気持ちは、もはや言葉にしなくとも痛いほどに分かっている。

分かっているのに、その最後の一線をどちらもまだ越えることができないでいた。


そんな、もどかしい日々が数日続いた頃。

王都から国王陛下の紋章を掲げた正式な使者が、辺境の別邸へと到着した。

使者が、恭しくわたくしたちの前で広げた書状。

そこには、国王陛下の直筆の署名と共にわたくしとアレクシス様に王都への正式な帰還を命じると、そう記されていた。


辺境の危機を未然に防いだ、英雄として。

国王陛下自らが、わたくしたちを正式に謁見しその功績に報いるためと。



王都へ、出発する日の朝。

別邸の前には、いつの間にか領地の全ての村から村人たちが集まってきていた。

その誰もが、寂しそうなそして不安そうな顔でわたくしのことを見つめている。


「リリアンヌ様……このまま王都へ、お戻りになられてもうここへは帰ってきちゃくださらねえのか……?」


一人の老いた村長が、代表して震える声でそう尋ねた。

わたくしは、その心の底からの不安を受け止めると、集まってくれた全ての人々の顔を一人一人、見渡しながら毅然と、しかし、どこまでも温かい声で宣言した。


「心配はいりませんわ」


にっこりと、わたくしは微笑む。


「陛下へのご報告と、ご挨拶をきちんと済ませたら、わたくしは必ずこの地へと戻ってまいります。だってここは……」


わたくしは、言葉を続ける。


「わたくしにとって、何よりも大切で、愛おしいわたくしの第二の故郷ですもの」


その言葉に領民たちは、わっと歓声を上げた。

彼らの目に、浮かぶ涙。

その一つ一つが、わたくしがこの地で築き上げてきた絆の証だった。

わたくしは、もはやただの公爵令嬢ではない。

彼らの、領主なのだ。


その光景を、わたくしのすぐ隣でアレクシス様がどこまでも誇らしげなそして優しい眼差しで見守ってくれていた。



王都への帰路は、この地へやってきた時とは全く違うものだった。

悪役令嬢として、都を追われたあの寂しい逃避行とは違う。

これは、国の危機を救った英雄としての晴れやかな凱旋なのだ。


アレクシス様は、もはやわたくしの監視役ではない。

わたくしを隣で守り、護衛するただ一人の騎士として堂々とその黒馬を並べて走らせていた。


王城に到着すると、わたくしたちはそのまま国王陛下がお待ちになられているという玉座の間へと通された。

そこは、かつてわたくしがユリウス殿下から婚約破棄を突きつけられたあの屈辱の場所。


しかし、今日この場所を満たしている空気はあの日の冷たい侮蔑に満ちたものではなかった。

厳かで、しかし、どこまでも温かい歓迎と賞賛の空気がそこには満ちていた。


玉座の前には、父である、ヴェルナー公爵をはじめ、この国の全ての重鎮たちがずらりと並んでいる。

そして、その玉座から国王陛下が自ら立ち上がり、わたくしたちの目の前まで歩み寄ってきてくださった。


「リリアンヌ・フォン・ヴェルナー嬢。そして、アレクシス・フォン・シュライバー卿」


陛下のその威厳に満ちた声が、玉座の間に響き渡る。


「この度の、そなたたちの国を救うというその大いなる働き、まことにまことに見事であった」


陛下は、まず、アレクシス様を労った。


「シュライバー卿。そなたのその類稀なる勇気と的確な決断力がなければ、我が国の西の国境は、今頃、敵の汚れた軍靴に踏みにじられていただろう。王国騎士団長として、よくぞその重責を果たしてくれた。礼を言う」


そして、陛下は、次にわたくしの方へと向き直られた。

その深い瞳には、真摯な感謝とそしてかつてわたくしを追放してしまったことへの微かな後悔の色が浮かんでいるように見えた。


「そして、リリアンヌ嬢。そなたの、その誰にも真似できぬ類稀なる慧眼とそして 何よりも、この国を民を思うその気高い精神……。我が愚かな息子が、どれほど大きくそしてかけがえのない宝をその手からこぼれ落としてしまったか、朕は、今、この時、骨の髄まで痛感しておる。この度の、最大の功労者は間違いなくそなたである。本当によくやってくれた」


「……もったいなきお言葉にございます、陛下」


わたくしは、ただ静かに深く頭を下げることしかできなかった。

その時だった。

これまでわたくしの隣でずっと黙っていたアレクシス様が、不意にその低い声で口を開いたのだ。


「陛下。恐れながら、一言申し上げます」


その場の、全ての視線が彼一人に集中する。

彼は、わたくしの方をちらりとも見ることなく、ただ、真っ直ぐに国王陛下だけを見つめて言った。


「父である、国王陛下。彼女は、ただの功労者などという言葉で片付けられるような存在ではございません」


一呼吸置いて。

彼ははっきりと、そして、力強く宣言した。


「彼女は、この俺の……いえ、この我がレオンハルト王国の何にも代えがたいかけがえのない『至宝』に、ございます」


―――至宝。


その、あまりにもあまりにも身に余る最大級の褒め言葉に、わたくしは思わず息を飲んだ。

陛下からの褒賞の言葉よりも。

居並ぶ貴族たちの賞賛の眼差しよりも。


彼のそのたった一言が。

わたくしの心の一番奥深く柔らかい場所にどこまでも温かく、そして強く強く響き渡った。


顔が熱い。

わたくしは、その燃えるように赤くなったであろう顔を誰にも見られないように、ただ、深く俯いているのが精一杯だった。

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