第21話

『対アレクシス様・ディスタンス作戦』と名付けた、わたくしの新たな試みは、ある意味では、順調に実行されていた。


アレクシス様と話すときは、常に侍女のアンナを間に挟むように配置する。

業務連絡は、可能な限り全て書面で提出。

どうしても直接会話をしなければならない場合は、淑女として許される最大限の距離、つまり、三メートル以上の間隔を保つことを徹底した。


「……リリアンヌ嬢。なぜ私は、常にアンナ嬢の背後から、貴女に話しかけねばならんのだ」


「あら、心外ですわね、閣下。わたくしは、ただ、侍女との適切な主従関係を保っているだけですのに」


わたくしの奇妙な行動に、アレクシス様は日に日に困惑の色を深めていった。

その、子犬のように少し困ったような彼の顔を見るたびに、わたくしの胸はきゅんと締め付けられ、アレルギー症状(と、わたくしは信じている)は、悪化する一方だったのだが。


そんな、どこかコミカルで平和な日常に、ある日、突然、不協和音が響き渡った。

一人の猟師が、血相を変えて、別邸に駆け込んできたのだ。


「リリアンヌ様! 騎士団長様! た、大変でございます!」


息を切らし、転がり込むように広間に入ってきた彼は、震える声で続けた。


「国境近くの森で……! 見慣れない兵士の一団が、うろついているのを見かけやした! 付けていた紋章は、間違いねえ、隣国の、ガルニア帝国の黒鷲の紋章でがす!」


その一言で、広間の、のんびりとした空気は、一瞬にして凍り付いた。



「場所はどこだ。正確に答えろ」


すぐに騎士団長の顔に戻ったアレクシス様が、地図を広げながら、冷静に、しかし、剃刀のように鋭い声で猟師に問い詰める。


「人数は、およそ何人いた。装備はどのようなものだったか。覚えている限り、詳細に話せ」


その場に居合わせたユリウス殿下とアイラ嬢も、さすがに事の重大さに気づいたのだろう。血の気を失い、ただ狼狽えるばかりだ。


ガルニア帝国。

野心的な皇帝が治める、好戦的な軍事国家。

我がレオンハルト王国の西の国境とは、長年、氷のように冷たい緊張関係が続いていた。


「……やはり、来たか」


アレクシス様が、苦々しく呟く。


「王都が、ユリウス殿下の……いや、王太子殿下のご不在と、それに伴う政務の混乱で守りが手薄になっている。その隙を、正確に突いてくるつもりか……!」


広間は、重い沈黙と焦りの空気に包まれた。

この辺境の地にいる兵力は、アレクシス様が連れてきたごく少数の騎士団員のみ。

到底、本格的な侵攻に対応できる数ではない。


皆が不安と緊張に押し黙る中、わたくしは静かに口を開いた。


「騎士団長閣下。その地図、少しお借りしてもよろしいかしら」


「……ああ」


わたくしは、彼が広げた精密な軍事用地図を真剣な目つきで覗き込む。

この辺境の地は、わたくしのいわば庭のようなもの。

幼い頃から、父の書斎でこの地の地理や歴史に関する書物を読み漁り、そして、実際に自分の足でこの森をこの山を隅々まで歩き回った。

その全ての記憶が、今頭の中で一つの線として繋がっていく。


「もし、彼らが、本気でこの国に侵攻してくるつもりならば……彼らが狙う場所は一つしかありませんわ」


わたくしが白魚のような指で、とん、と地図の一点を指し示す。

そこに記されていたのは、国境の山脈沿いにある小さな砦の名前。


『鷲ノ巣砦』。


「なっ……馬鹿な。あそこは、もう何十年も使われていない、古いだけの砦だぞ」


アレクシス様が、訝しげな声を上げる。


「ええ。一見すれば、その通りですわ」


わたくしは、静かに続けた。


「ですが、この砦は一見するとただの古い砦に見せかけて実は、山を越え王都へと続く秘密の最短ルートを完全に抑えることができる戦略上の最重要拠点なのです」


「……!」


「そして、何より重要なのは。冬になれば、この辺りの道は全て深い雪で閉ざされてしまいます。ですが、この鷲ノ巣砦へと続くこの谷間の道だけは地下を流れる温泉の影響で、唯一冬の間も決して凍りつくことがないのですわ」


わたくしの言葉にアレクシス様は、はっとしたように目を見開いた。


「彼らの狙いは、こうですわ。本格的な冬が来る前にこの砦を音もなく奪い取る。そして、他の全ての道が雪で閉ざされる冬の間に砦の中で静かにそして着実に兵力を蓄える。そして……雪解けと共に最短ルートを通り一気に、王都の心臓部へとなだれ込むつもりではございませんこと?」


わたくしの、あまりにも的確であまりにも恐ろしい軍事的視点に基づいた分析にその場にいた誰もが言葉を失った。


「ば、馬鹿なことを言うな!考えすぎだ!」


最初に我に返ったのは、ユリウス殿下だった。


「それは、ただの偵察部隊に決まっている!下手にこちらが刺激すれば、それこそ帝国に開戦の口実を与えることになるぞ!」


彼は、自らの治世下で戦争などという最悪の事態が起こることを何よりも恐れていた。

それは、自らの無能さを内外にはっきりと証明してしまうことに他ならないからだ。


しかし。


「……いや」


アレクシス様が、そのユリウス殿下の弱気な言葉を静かにはっきりと否定した。


「リリアンヌ嬢の分析が、おそらく正しい。我々は、最悪の事態を想定して今すぐ動くべきだ」


彼は、王太子であるユリウス殿下ではなく、追放された令嬢である、このわたくしの言葉を、選び、信じてくれたのだ。

わたくしたちの間に芽生えた信頼は、もはや、個人的な感情だけでなく、この国の危機を共に乗り越えるための、強固な『同志』としての絆へと、昇華されようとしていた。


「閣下、すぐに砦へ偵察部隊を。そして、王都のお父様へ急ぎ知らせの使いを送らねばなりませんわ」


「ああ、分かっている」


わたくしたちの間で、もはや言葉は必要なかった。

恋のすれ違いに悩んでいた、どこかコミカルな日常は終わりを告げた。

物語は、この国の存亡を賭けた緊迫した新たな舞台へとその幕を開けたのだった。

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