第22話

アレクシス様は、即座に行動を開始した。

彼の指揮下にある、数少ない精鋭の騎士たちが、音もなく闇に紛れ、鷲ノ巣砦へと偵察に向かう。

王都にいる父、ヴェルナー公爵への急を告げる伝令は、この辺境で最も速いとされる馬に乗せられ、すでに出立した後だった。


別邸の、わたくしの書斎が、にわかづくりの作戦司令室となった。

大きなテーブルに広げられた一枚の地図。

それを挟んで、わたくしとアレクシス様が、厳しい表情で向かい合う。

その後ろでは、老執事のゼバスチャンや、護衛の騎士たちが、固唾を飲んでわたくしたちの様子を見守っていた。


完全に蚊帳の外に置かれたユリウス殿下とアイラ嬢は、自分たちが口を挟めるような雰囲気ではないことを、ようやく察したのだろう。部屋の隅の方で、ただ顔を青くして、小さくなっているだけだった。


「……問題は、二つありますわね」


偵察部隊の帰還を待つ、重い沈黙の中、わたくしは静かに口を開いた。


「一つは、敵の正確な兵力。そして、もう一つは、彼らが、いつ、砦の襲撃を決行するのか、ですわ」


「ああ。だが、いずれにせよ、こちらの兵力は、あまりにも少なすぎる。まともに戦っては、勝ち目はない。砦に籠城されてしまえば、王都からの援軍が到着する前に、我々は全滅するだろうな」


アレクシス様が、苦々しく答える。

しかし、わたくしは、静かに首を横に振った。


「いいえ、閣下。籠城戦には、させませんわ」


「……何?」


「鷲ノ巣砦には、一つだけ、古くから伝わる、致命的な弱点が存在しますの」


わたくしは、そう言うと、地図上の一点を、指で示した。

それは、砦のすぐ背後にそびえる険しい崖と、そこから、まるで細い糸のように、砦の中へと流れ込んでいる、一本の小さな川だった。


「この川は、砦に暮らす者たちの、唯一の水源。そして、あまり知られてはおりませんが、この崖の、さらに上流には……」


わたくしは、指を、ゆっくりと地図の上で滑らせる。


「かつて、この地を襲った大干ばつに備え、先人たちが築いた、古い、古い、石造りの堰が存在します。今はもう、ほとんど使われておりませんが」


「……堰、だと?」


アレクシス様の、青い瞳が、鋭く光った。


「ええ。もしも、万が一、この堰を、意図的に決壊させることができたなら……砦への水の供給を完全に断つどころか、その鉄砲水で、砦の石壁の一部を、破壊することすら、可能かもしれませんわ」


その、あまりにも大胆で、そして、あまりにも恐ろしい作戦内容に、後ろに控えていた騎士たちが、息を飲む気配がした。


「しかし、リリアンヌ嬢。そんなことが、本当に可能なのか? 古いとはいえ、砦を守るための堰だ。そう簡単に壊せるような、やわな作りではあるまい」


「ええ、ですから、あくまで『もしも』の話ですわ。ですが、敵の意表を突くための、選択肢の一つとして、頭の片隅に、置いておくべきかと存じます」


わたくしが、そう言い終えたのと、ほとんど同時だった。

書斎の扉が、勢いよく開かれた。


「団長! ただ今、戻りました!」


偵察に向かっていた騎士が、転がり込むように入ってくる。

彼の報告は、わたくしの、最悪の予測が、完全に的中していたことを、無情にも告げていた。


砦の周辺には、やはり、ガルニア帝国の兵士たちが、身を潜めていること。

その数、およそ五十。

そして、彼らは、砦を力攻めするのではなく、砦の中にいる内応者を手引きして、門を内側から開けさせ、今夜、月が最も高く昇る頃、無血で、静かに、砦を占拠する計画である、と。


「……今夜だと!?」


アレクシス様の顔から、血の気が引いた。

残された時間は、もはや、数時間しかない。

王都からの援軍など、到底間に合わない。

この、絶望的な状況で、一体、何ができるというのか。


誰もが、唇を噛みしめ俯いたその時だった。


「閣下」


わたくしは静かに、しかし凛とした声で彼を呼んだ。


「わたくしに、一つ考えがございます」



わたくしが提案したのは、陽動と奇襲を組み合わせた、一か八かの、大胆不敵な作戦だった。


「まず、アレクシス様率いる騎士の方々には、正面からあえて派手に砦へと向かっていただきます。もちろん、本気で戦う必要はございません。敵に、わたくしたちの接近を気づかせその注意を、全て正面の門へと引きつけるための陽動ですわ」


「……その隙に、どうするつもりだ」


「その隙に、わたくしがこの土地の地理に詳しい猟師数名とゼバスチャンを連れて、この地図にも載っていない秘密の獣道を通り、砦の背後にそびえるあの崖の上へと回り込みます」


「お嬢様!それは、あまりにも危険すぎます!」


「ゼバスチャン!」


わたくしの計画を、老執事のゼバスチャンが悲鳴のような声で遮った。

無理もない。彼は、わたくしを赤子の頃から見守ってきてくれた親代わりのような存在なのだから。


アレクシス様もまた、硬い声でわたくしの作戦を即座に却下した。


「論外だ。貴様のようなか弱い令嬢を、そのような危険な目に遭わせることなど断じてできん」


しかし、わたくしは一歩も引かなかった。

その、真っ直ぐな青い瞳を正面から見つめ返す。


「これは、わたくしの領地でわたくしの民が危険に晒されているということですのよ。その責任者であるこのわたくしが安全な場所でのうのうと結果を待っているだけで、どういたしますの」


そして、わたくしは続けた。


「それに、この作戦はこの土地の全ての道全ての木、全ての岩を完璧に把握している。このわたくしにしか実行不可能なのですわ」


その瞳に宿るのは、もはやただの公爵令嬢ではない。

この地を、この民を愛しそして守り抜こうとする領主としての揺るぎない覚悟。


わたくしの、その覚悟の前にアレクシス様は長い長い沈黙の後、ついに重々しく頷いた。


「…………分かった。だが、これは命令だ」


「……」


「必ず、五体満足で俺の前に戻ってこい。いいな」


「―――善処、いたしますわ」


わたくしは、初めて彼に向かってふわりと微笑んで見せた。

もはや、わたくしたちの間に主従も監視役も被監視対象もない。

あるのは、ただ互いの命を預けあう戦友としての強固な強固な絆だけだった。

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