第16話

訓練場での、あの「セクハラ事件」以来、わたくしはアレクシス様のことを、意識的に避けていた。

仕方ありませんわ。だって、顔を合わせるたびに、あの時の、彼の硬い胸板の感触と、耳元で囁かれた『軽いな』の一言が蘇ってきて、心臓に悪いのですもの。

もちろん、あのデリカシーのない発言に対する怒りは、まだ消えてはおりませんけれど。


わたくしのそっけない態度に、彼の方も何か思うところがあるのか、必要以上に話しかけてくることはなくなった。

そのことに安堵しつつも、胸の奥がちくりと痛むのは、きっと気のせいに違いありませんわ。


一方、未だに別邸に居座っているユリウス殿下とアイラ嬢は、わたくしたちのそんな微妙な空気を楽しんでいるようだった。

特にアイラ嬢は、女性としての妙な対抗心からか、何かとアレクシス様に言い寄っては、氷のような冷たい視線であしらわれ、悔し涙を浮かべる、という一人芝居を繰り返していた。実に、滑稽ですこと。



そんなある日の午後。

わたくしは、気分転換と、この辺りの森に自生する薬草の生態調査を兼ねて、一人で別邸の裏手に広がる森の中を散策していた。

もちろん、数メートル後ろを、わたくしの有能すぎる護衛兼監視役殿が、音もなくついてきていることには、気づいている。


森の奥深くへと足を進めると、木々が拓けた、日当たりの良い小さな空き地に出た。

その中心に、ぽつんと一軒、古びて苔むした狩人の小屋が建っている。


(まあ、こんなところに、このようなものが……)


わたくしが、その趣のある小屋に見とれていると、中から、微かに人の話し声と、それから、クウン、クウン、という、か細い動物の鳴き声が聞こえてきた。


(誰かしら? こんな森の奥で、動物と……?)


好奇心には、勝てなかった。

わたくしは、貴族の令嬢にあるまじきこととは思いつつも、抜き足差し足、音を立てないように、そっと小屋へと近づいていく。

そして、壁板の隙間から、中の様子を、そっと覗き込んだ。


そこでわたくしが見た光景に、思わず息を飲んだ。


小屋の中では、あの、鬼神のごとき強さを誇る、『氷の騎士団長』アレクシス・フォン・シュライバー閣下が、床に膝をつき、小さな、小さな子ギツネの、怪我をした後ろ足に、驚くほど手際よく、綺麗な包帯を巻いていたのだ。


そして。


「よし、痛かったな。もう大丈夫だぞ」


その声は、わたくしが今まで一度も聞いたことのない、蜂蜜を煮詰めたかのように、甘く、穏やかで、そして、とてつもなく優しい声だった。


「ん? 腹が減ったのか? 仕方ないな。ほら、これを食べろ」


彼はそう言うと、懐から取り出した干し肉を、指で小さく、小さくちぎって、子ギツネの口元へと運んでやった。

子ギツネは、安心しきった様子で、彼の指先をぺろぺろと舐めている。


(か、か、閣下が……! あのような、もふもふとした、愛らしい生き物を、あんなにも、慈愛に満ちた、優しいお顔で……!)


衝撃的すぎた。

氷の仮面の裏に隠された、あまりにも、あまりにも大きなギャップ。

推しの、知られざる新たな一面。

その尊さに、わたくしは眩暈を覚え、危うくその場に崩れ落ちそうになった。


その時だった。

わたくしの足が、不覚にも、地面に落ちていた乾いた小枝を踏んでしまったのだ。


パキッ。


静かな森に、その音は、やけに大きく響いた。


「―――誰だ!」


はっとしたように、アレクシス様が振り返る。

その顔は、一瞬で、いつもの鋭い騎士団長の顔に戻っていた。

彼の腕の中の子ギツネが、びくりと体を震わせる。


もう、隠れることはできない。

わたくしは、気まずさで顔を赤らめながら、小屋の入り口から、おずおずと姿を現した。


「…………リリアンヌ嬢。いつから、そこに」


彼の顔に、動揺と、焦りの色が浮かぶのが、はっきりと分かった。


「……その、今、来たところですわ」


嘘だった。

わたくしは、しばらくの間、彼の尊い姿を、穴が開くほど観察させていただいておりました。


「閣下が、そのような、もふもふとした愛らしい生き物を、お好きだったとは、全く存じ上げませんでしたわ」


わたくしが、少しだけ意地悪くそう言うと、彼は、苦虫を百匹ほど噛み潰したような、実に渋い顔をした。


「…………他言したら、斬る」


「まあ、物騒ですこと。ご安心くださいな。他言など、決していたしませんわ」


わたくしは、にっこりと微笑んで見せる。


「わたくしも、大好きですから。もふもふとした、愛らしい生き物は」


その言葉に、彼が、少しだけ驚いたように、目を見開いた。


わたくしは、彼の隣にゆっくりとしゃがみ込むと、怯えている子ギツネの頭を、優しく撫でてやった。

怪我をした一匹の子ギツネを間に挟んで、わたくしたちは、初めて、国のことでも、領地のことでもない、他愛のない話をした。

この子ギツネが、親とはぐれて猟師の古い罠に掛かっていたこと。

彼がこっそりと、この小屋で手当てを続けていること。


夕暮れの柔らかな光が、小屋の隙間から差し込んで、わたくしたち二人と、一匹の動物を優しく照らしていた。


「……あなたと、わたくしの、二人だけの秘密ですわね」


わたくしがそう囁くと、彼は初めてわたくしの目の前ではっきりと、こくりと頷いた。


共有された、温かい「秘密」。

それは、わたくしたち二人の心をこれまで以上に強く固く結びつけてくれることになるのだった。

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