第15話

王都の不穏な噂が届いて以来、別邸にはどこか張り詰めた空気が流れていた。

わたくしは、領地の仕事を進めながらも、常に心のどこかで国の行く末を案じ、夜中に一人でため息をつくことが増えた。

お父様は、王都で孤軍奮闘されているのだろうか。民は、疲弊していないだろうか。


それは、隣にいる監視役殿も同じだったようだ。

アレクシス様は、以前にも増して口数が少なくなり、その青い瞳の奥には、騎士団長として、そして一人の臣下としての深い苦悩の色が浮かんでいた。

わたくしたちの間に、以前のような甘くぎこちない空気はすっかりと影を潜め、代わりに、同じ憂いを共有する同志としての、静かな緊張感が満ちていた。


その日も、わたくしは書斎で唸っていた。

考えても仕方のないことだと分かってはいても、一度浮かんだ懸念は、そう簡単には消えてくれない。


「……少し、頭を冷やしませんとね」


煮詰まった気分を振り払うように、わたくしは席を立ち、ふらりと外へ出た。

向かったのは、別邸の裏手にある、小さな訓練場。

そこでわたくしが見た光景に、思考が、完全に停止した。


夕陽を浴びて、汗に濡れた逞しい上半身を晒しながら、一人の男性が、一心不乱に木剣の素振りを繰り返していたのだ。

引き締まった背中から、しなやかな腰へ。そして、力強く大地を踏みしめる両足へ。

その全ての筋肉が、一つの芸術品のように、完璧な調和を保って躍動している。

アレクシス様だった。


(うわあああああああああああっ!)


わたくしは、内心で、淑女にあるまじき絶叫を上げた。

な、なんですの、あの、あの、けしからん肉体美は!

彫刻家が精魂込めて作り上げた、最高傑作の彫像ですら、彼の前では色褪せて見えるに違いない!


(いけませんわ、リリアンNAヌ! 今は国の危機的状況ですのよ! 推しの美しい筋肉に現を抜かしている場合ではございません!)


必死に自分を叱咤するが、目は、彼の背中に釘付けだ。

一振り、また一振りと木剣が空を切るたびに、汗の雫が、その筋肉の谷間をきらきらと滑り落ちていく。

その光景から、どうしても、目が離せない。


「……何か用か」


不意に、彼が素振りをやめ、こちらを振り返った。

どうやら、わたくしのあまりに熱心な視線に、気づいてしまったらしい。

汗を腕で拭いながら、訝しげな声で問いかけてくる。


「い、いえっ! べ、別に! 閣下の鍛錬の邪魔をするつもりなど、毛頭ございませんわ!」


慌てて取り繕うが、声は無様に裏返っていた。

顔が、茹でダコのように熱い。


国のことを思い、一人黙々と鍛錬に打ち込む彼の姿に、わたくしは胸を打たれていた。

何か、わたくしにもできることはないだろうか。


(そうだわ。せめて、汗を拭くためのタオルくらいは、お渡ししませんと)


そう思い立ったわたくしは、訓練場の隅の長椅子に置いてあった、清潔なタオルを手に取ると、意を決して、彼の方へと歩み寄った。


「閣下、その……汗が、お体によくありませんわ」


しどろもどろになりながら、タオルを差し出そうとした、その時だった。

足元の、小さな石に、気づかなかった。


「きゃっ!」


ぐらり、と。

わたくしの体が、大きくバランスを崩す。

地面が、スローモーションで迫ってくる。


その、瞬間。

にゅっと伸びてきた鋼のような腕が、わたくしの体を、がしりと力強く抱きとめた。


どん、という衝撃と共に、わたくしは、アレクシス様の汗ばんだ、硬い胸板に顔をうずめる形になっていた。

彼の心臓の、規則正しく力強い鼓動が、直接、耳に響いてくる。

汗と、それから、彼自身の、日に焼けたような、男らしい匂い。

頭が、完全にショートする。


時間が、止まったかのようだった。

風の音も、鳥の声も、何も聞こえない。

ただ、彼の腕の力強さと、体温だけが、わたくしの全てを支配していた。


長い、長い沈黙の後。

わたくしの頭の上から、彼が、ぽつりと呟く声が聞こえた。


「…………軽いな」


……はい?


彼は、庇護欲から、無意識にそう口走っただけだったのかもしれない。

この、華奢で、儚げな体を、自分が守らねばならない、と。


しかし、パニック状態のわたくしの耳には、その言葉は、全く違う意味で届いてしまった。


(か、軽い!? 今、軽いと仰いましたの!? こ、この状況で、わたくしの体重の話をなさったの!?)


わたくしの中で、せっかく芽生えかけたロマンチックな雰囲気は、木っ端微塵に砕け散った。


「―――っ!」


わたくしは、彼の腕の中から、勢いよく身を捩って離れる。

顔は、先ほどとは違う意味で、真っ赤になっていた。


「……閣下」


「なんだ」


「今、わたくしの体型について、軽々しく言及なさいましたわね?」


「……思ったことを、言っただけだが」


「それは、セクシャルハラスメントという、重大な非行に該当するのですわよ! ご存知でしたの!?」


「せく……はら……? なんだ、それは。新しい魔法か何かか」


聞き慣れない言葉に、氷の騎士団長閣下は、心底不思議そうに首を傾げた。


「とにかく! デリカシーというものが、著しく欠けておりますわ!」


わたくしは、そう言い捨てると、持っていたタオルを、彼の顔面に叩きつけるように投げつけ、ぷりぷりと怒りながら、その場を去った。


一人、訓練場に残されたアレクシス様は、顔にかかったタオルを手に、なぜ、彼女が突然怒り出したのか、全く理解できず、ただ呆然と立ち尽くすのだった。

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