第17話

森の小屋での「秘密の共有」以来、わたくしとアレクシス様の間の空気は、明らかに変化していた。

これまであった、どこか探り合うような、あるいは反発しあうような棘のある雰囲気はすっかりと消え去り、代わりに、穏やかで、温かい信頼に満ちた空気が流れるようになっていた。


二人でこっそりと、子ギツネの様子を見に行くのは、いつしか日課となった。

日に日に元気になっていく子ギツネの姿を見ながら、他愛のない話をする。その時間は、国の未来を憂う重苦しい現実を、ほんのひと時だけ忘れさせてくれる、大切なものになっていた。


その、わたくしたちの変化に、最も敏感に、そして、最も不快に感じ取っていたのは、おそらくアイラ・ミモザ嬢だっただろう。


彼女が、どれだけ可憐な仕草で媚を売ろうと、アレクシス様は氷の彫像のように微動だにしない。

それなのに、わたくしが彼と話す時だけ、その氷の仮面が、ほんのわずかに和らぐのだ。

領民たちは、わたくしのことを「口は悪いが、頼りになるお嬢様」と慕い始め、肝心のユリウス殿下でさえ、わたくしが着実に成果を上げていく様子を目の当たりにして、「あるいは、婚約破棄は早まった判断だったか…?」などと、後悔の念を滲ませるようになってきている。


自分の居場所が、少しずつ、しかし確実に失われていく恐怖。

そして、自分が欲しくてたまらないものを、いとも簡単に手にしている(ように見える)わたくしへの、焼け付くような嫉嫉。


(このままじゃ、ダメ……! あの女を、リリアンヌを、ここで完全に叩き潰しておかなければ!)


焦燥感に駆られた彼女は、ついに、最も愚かで、そして最も悪質な手段に打って出ることを決意した。



ほどなくして、領民たちの間に、奇妙な噂が流れ始めた。


「なあ、聞いたか? リリアンヌ様がこの地に来てから、急に作物の育ちが良くなったのは、何かおかしいって話だ」


「ああ。夜な夜な、森の奥深くで、怪しげな儀式をしているのを、見た者がいるらしいぜ」


「あの、飛ぶように売れているっていうハーブティーやジャムにも、もしかしたら、人を言いなりにする毒でも入っているのかもしれねえ…」


「そもそも、あんなに上手く、王都の商人と取引ができるなんて、裏で、闇の商人ギルドとでも繋がっているに違いねえよ!」


聖女である自分とは対照的に、わたくしを『悪女』から『魔女』へと仕立て上げる。

それが、アイラ嬢の新たな策略だった。

最初は、誰もそんな馬鹿げた噂を信じはしなかった。

しかし、その噂の発信源が、王太子殿下がご寵愛なさっている、聖女様と名高いアイラ嬢であるということ。

そして、人間の心に巣食う、漠然とした不安と嫉妬。

それらが、じわじわと毒のように広がり、噂は少しずつ、真実味を帯びて一人歩きを始めてしまったのだ。


「お嬢様! これは、あまりにもひどすぎますわ! アイラ様の差し金に違いありません!」


わたくしの耳にその噂が届いた時、侍女のアンナは、自分のことのように憤慨してくれた。

しかし、わたくし自身は、驚くほど冷静だった。


「放っておきなさい、アンナ」


「ですが!」


「真実は、一つしかありませんわ。わたくしたちが今やるべきことは、こんなくだらない噂に一喜一憂することではなく、やるべきことをやり遂げ、確固たる結果を出すこと。ただ、それだけよ」


わたくしは、そう言って、再び仕事に戻った。

だが、その堂々とした態度が、かえって一部の疑心暗鬼に駆られた領民たちの不安を、増幅させてしまう結果になることを、この時のわたくしは、まだ知らなかった。



その噂を聞いた時、アレクシス様は、静かな、しかし、底なしの怒りにその身を燃やしていた。

彼は、誰よりも近くで見てきたのだ。

わたくしが、どれほどの知識と、努力と、そして、この地への愛情をもって、改革に取り組んでいるか。

その尊い行いを、『闇の力』などという、愚劣極まりない言葉で貶めることは、彼にとって、断じて許せることではなかった。


その日の夕刻。

アレクシス様は、アイラ嬢を、別邸の庭園へと一人、呼び出した。


「アイラ・ミモザ嬢。くだらない真似は、そこまでにしておけ」


その声は、冬の夜空のように、どこまでも冷え切っていた。

背後に控えるユリウス殿下のいない場所で、剥き出しの殺気すら含んだ彼の視線に、アイラ嬢は、恐怖でか細く震え上がった。


「な、な、何のことですの……? わたくしには、さっぱり、分かりませんぅ……」


「とぼけるな。貴様が流した、その根も葉もない噂のせいで、ようやく一つにまとまりかけた領民たちの間に、無用な混乱と、疑念が生じている。これは、この地の治安を預かる者として、断じて見過ごせん」


一歩、彼が足を踏み出す。

アイラ嬢は、怯えたように、一歩、後ずさった。


「警告しておく。これ以上、リリアンヌ嬢の気高い名誉を傷つけ、領民を惑わすのであれば――」


彼は、静かに、しかし、はっきりと宣告した。


「王太子殿下のご寵愛を受けていようと、俺は、貴様を、王国騎士団の権限において、正式に拘束する。覚えておけ」


「ひっ……!」


本気の、脅し。

アイラ嬢は、その場にへたり込みそうになるのを、必死でこらえた。


アレクシス様の、断固とした介入により、領内に広がりかけた悪質な噂は、一旦は、下火になるかに見えた。

しかし、彼は知らなかった。

追い詰められた鼠が、猫を噛むこともあるということを。

彼の正義感あふれる行動が、かえってアイラ嬢を、さらに危険で、後戻りのできない暴走へと駆り立てる、引き金となってしまったということを。

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