第14話
村での小さな祝宴の翌朝。
別邸の空気は、どこかぎこちないものになっていた。
(……なぜ、あの一言が、こうも頭から離れないのかしら)
わたくしは、書斎で帳簿に向かいながらも、昨夜のアレクシス様の言葉を思い出しては、一人で顔を赤らめていた。
『悪くない』。
ただそれだけの、素っ気ない言葉だったはずなのに。
あの時の、真っ直ぐで、熱を帯びた彼の瞳が脳裏に焼き付いて離れず、全く仕事が手につかない。
それは、彼の方も同じだったらしい。
訓練場で部下の騎士たちの稽古を見ていたアレクシス様は、柄にもなくぼーっと上の空になる瞬間が何度かあった。
「団長? いかがなさいましたか、本日、何かお考え事でも?」
「……いや、何でもない。続けろ」
部下に指摘され、慌てて表情を引き締める。
彼の脳裏にもまた、花冠を乗せて、無防備に笑うわたくしの姿が、繰り返し浮かんでいたのだった。
そんな、どこかふわふわとした空気が流れていた別邸に、一本の手紙が届いたのは、昼過ぎのことだった。
鷹の目商会の、マルコ氏からだった。
◇
手紙の冒頭には、わたくしの商品がいかに王都で評判か、そして次回の取引に関する具体的な相談事が、実に商売人らしい丁寧な言葉で綴られていた。
その内容に、わたくしは満足して頷く。事業は、順調そのものだ。
しかし、手紙を読み進めるにつれ、わたくしの表情は、次第に険しいものへと変わっていった。
手紙の最後が、追伸として、王都の最近の情勢を伝える私的な内容で締めくくられていたのだ。
『―――ところでリリアンヌ様、ここだけの話にございますが、最近の王都の空気は、決して良いものとは言えませぬ』
マルコ氏の、どこか回りくどい文章には、商人としての彼の危機感が滲んでいた。
『ユリウス王太子殿下は、リリアンヌ様とのご婚約を解消されて以来、かのアイラ様のご意見ばかりを重んじ、国政を顧みられないご様子。アイラ様のために、毎晩のように豪華な夜会や観劇の席を設けられ、その浪費は、我々商人の間でも噂になるほどでございます』
『アイラ様ご自身も、高価なドレスや宝石を次々と殿下におねだりになり、その費用がどこから捻出されているのかと、民の間では不満の声が日増しに高まっております』
『ヴェルナー公爵閣下は、そんな殿下のご様子を度々お諌めになっているようですが、殿下は全く聞く耳をお持ちになられず、それどころか、アイラ様に唆され、公爵閣下を『古い権力』として、政治の中枢から遠ざけようとなさっているとか……』
手紙を持つ手が、わなわなと震えた。
(あの、愚かな殿下……! あの女の言いなりになって、国を、民を、そしてお父様を、ないがしろにする気ですの!?)
ユリウス殿下に、もはや恋愛感情など一欠片も残ってはいない。
しかし、次期国王となるべき人間が、己の責任を放棄し、私情で国を危機に晒しているという事実が、わたくしの腹の底からの怒りを呼び覚ました。
わたくしは、自分が王太子妃となることで、あの愚かで人の良い殿下を正しく導き、この国を支えるのだと、そう思っていた。
それは、恋ではなく、ヴェルナー公爵家に生まれた者としての『義務』だと信じていた。
その義務から解放されたはずの今も、この国の行く末を案じずにはいられない自分がいた。
わたくしは、その手紙を握りしめると、足早にある人物の元へと向かった。
◇
「閣下。少し、よろしいでしょうか」
アレクシス様は、自室で剣の手入れをしているところだった。
わたくしの、ただならぬ表情を認めると、彼はすぐに布を置き、こちらに向き直る。
「どうした」
「王都からの、便りですわ。貴方にも、共有しておくべきかと思いまして」
監視役である彼に、王都の情勢を伝えるのは、当然の義務。
わたくしは、自分にそう言い聞かせ、マルコ氏からの手紙の内容を、かいつまんで彼に伝えた。
わたくしが話し終える頃には、彼の眉間には、深い、深い谷間のようなシワが刻まれていた。
「……殿下は、ご自分が今、何をなさっているのか、全くご理解できていないと見える」
その声は、静かだったが、煮えたぎるような怒りが込められていた。
「ええ。あのままでは、遠くないうちに、民の不満は限界に達しますわ。そうなれば、暴動や、あるいは、その混乱に乗じて、虎視眈々とこの国を狙う隣国が介入してくることにもなりかねません」
わたくしたちの間に、昨夜までの、あの甘くぎこちない空気は、もはやなかった。
あるのは、この国の未来を本気で憂う、同志としての、張り詰めた緊張感。
この辺境の地で、わたくしたちは、少しずつだが確かな成功を手にしていた。
領民たちの笑顔も増え、未来への希望が見え始めていた。
その全てが、王都にいる、たった二人の愚か者のせいで、水泡に帰すかもしれない。
「……わたくしに、何かできることはないかしら」
ぽつり、と。無力な呟きが口からこぼれた。
追放されたただの令嬢。
今のわたくしに、国を動かす力など何もない。
そんなわたくしの姿を、アレクシス様は強い光を宿した瞳でじっと見つめていた。
その瞳の奥で、彼がある一つの決意を固めつつあることをこの時のわたくしはまだ知る由もなかった。
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