第9話
厨房での一件以来、わたくしはアレクシス様と顔を合わせるのが、どうにも気まずくて仕方がなかった。
醜態を晒した恥ずかしさと、彼の微かな笑みを思い出しては、一人で悶絶する日々。
しかし、当のアレクシス様は、翌朝にはいつもの完璧な無表情に戻っていた。
まるで昨夜のことなど何もなかったかのように、一言もその件に触れてはこない。
そのことに、わたくしは心底安堵しつつも、ほんの少しだけ、ほんの爪の先ほどだけ、物足りなさを感じてしまう自分に気づいて、慌てて首を横に振った。
(何を考えているの、わたくしは! 忘れなさい、忘れるのですわ!)
気を取り直したわたくしは、領地改革計画の実行に本格的に着手した。
まずは、各村の村長たちを別邸に集め、合同の説明会を開く。
「―――以上が、今後の方針ですわ。異論のある方は?」
わたくしが提示した、具体的かつ合理的な計画に、最初は半信半疑だった村長たちも、最後には希望に満ちた顔で頷いてくれた。
それからは、まさに猫の手も借りたいほどの忙しさだ。
資材の調達、人員の割り振り、王都の商人との書簡のやり取り。
やるべきことは山のようにあったが、領地が少しずつ、良い方向へ変わっていく手応えに、わたくしはこれ以上ないほどの充実感を覚えていた。
そんなわたくしの活動を、アレクシス様は常に数歩後ろから、黙って監視――いや、観察していた。
時折、彼の方から「その資材の運搬なら、騎士団の馬を使えば半日で終わる」「その商人とは、騎士団も取引がある。俺の名前を出せば、多少の無理も聞くだろう」などと、助言をくれることもあった。
そのぶっきらぼうな優しさに、わたくしの心臓は度々跳ね上がったが、なんとか平静を装う。
そうして、わたくしたち二人の間には、いつしか奇妙な信頼関係のようなものが、芽生え始めていた。
◇
そんな穏やかな(わたくし基準では)日々は、ある日、突然終わりを告げた。
王都から、一台の豪華絢爛な馬車が、土煙を上げてやってきたのだ。
馬車の扉に輝くのは、まごうことなき、レオンハルト王家の紋章。
そして、その中から現れたのは、わたくしが今、最も会いたくない人物たちだった。
「リリアンヌ! 君が、この辺境の地で、きちんと反省しているか、わざわざ視察に来てやったぞ!」
尊大な態度で言い放つ、元婚約者のユリウス殿下。
その腕には、これみよがしにアイラ・ミモザ嬢が絡みついている。
「まあ、リリアンヌ様、お久しぶりですぅ。こんな何もない辺鄙な場所で、さぞお辛い毎日でしょう…?」
その瞳には、隠しきれない優越感と、見え透いた同情の色が浮かんでいた。
(うわあ……。最高に面倒くさいのが、セットで来ましたわ……)
わたくしは、内心で深々とため息をついた。
しかし、表面上は、完璧な淑女の笑みを貼り付ける。
「まあ、ユリウス殿下、アイラ様。ようこそいらっしゃいました。このような何もない場所へ、わざわざご足労いただき、大変恐縮ですわ」
わたくしが優雅にカーテシーをすると、わたくしの半歩後ろに控えていたアレクシス様が、すっと前に出て、無言のまま片膝をついて礼をした。
その姿から放たれる氷のような圧に、ユリウス殿下は一瞬、たじろいだように見えた。
彼らの来訪の目的は、もちろん「視察」などではない。
最近、王都のサロンでは、こんな噂が囁かれていたのだ。
『リリアンヌ嬢が追放されたヴェルナー家の西の領地には、実はまだ未開発の、豊かな鉱山資源が眠っているらしい』と。
おそらく、この噂をどこかで聞きつけたアイラ嬢が、ユリウス殿下を唆したのだろう。
案の定、ユリウス殿下は、さも思いやりのある顔で切り出してきた。
「リリアンヌ。君が、このような痩せた土地を持て余している姿は、見ていられない。君に代わって、この土地の開発は、私が王家直轄の事業として、特別に行ってやろうではないか」
(よくもまあ、そこまで白々しく言えるものですわね)
わたくしは、その浅はかな魂胆に、もはや笑いさえ込み上げてくる。
「まあ、殿下。なんとご親切な申し出でしょう。ありがとうございます」
にっこりと、最高の営業スマイルで返す。
「ですが、ご存じの通り、この土地は我がヴェルナー公爵家が代々受け継いできた、大切な私有地。いかに王家といえども、個人の資産に手を出すのは、法に触れるのではなくて?」
「なっ……!」
「それに、鉱山の噂ですけれど、それはあくまで、ただの噂ですわよ? もし本当に、そのような儲け話が転がっているのなら、抜け目のない我がヴェルナー家が、とうの昔に開発しておりますわ。うふふ」
正論と、ほんの少しのハッタリ。
わたくしの余裕綽々の態度に、ユリウス殿下はぐっと言葉に詰まった。
すると、隣にいたアイラ嬢が、助け舟を出すように、わざとらしい甘い声を出した。
「ユリウス様! わたくし、この土地で苦しんでいる皆さんのために、わたくしの聖なる力で、お祈りをして差し上げたいですぅ!」
(はい、出ましたわ。お得意の聖女様ごっこ)
領民たちの前で、何かしらの「奇跡」とやらを見せつけ、人心をこちらに引き寄せようという魂胆だろう。
やり方が、いちいち浅はかですのよ。
わたくしは、これから始まるであろう茶番を思い、内心で二度目の深いため息をついた。
「ええ、よろしいのではなくて? きっと、領民たちも喜びますわ」
わたくしは、あえてその挑戦に乗って差し上げることにした。
背後では、アレクシス様が、心底うんざりとした冷たい空気を放っている。
王都からの厄介者の登場により、辺境の地でのわたくしの穏やかな(?)休暇は、新たな波乱の幕を開けたのだった。
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