第9話

厨房での一件以来、わたくしはアレクシス様と顔を合わせるのが、どうにも気まずくて仕方がなかった。

醜態を晒した恥ずかしさと、彼の微かな笑みを思い出しては、一人で悶絶する日々。


しかし、当のアレクシス様は、翌朝にはいつもの完璧な無表情に戻っていた。

まるで昨夜のことなど何もなかったかのように、一言もその件に触れてはこない。

そのことに、わたくしは心底安堵しつつも、ほんの少しだけ、ほんの爪の先ほどだけ、物足りなさを感じてしまう自分に気づいて、慌てて首を横に振った。


(何を考えているの、わたくしは! 忘れなさい、忘れるのですわ!)


気を取り直したわたくしは、領地改革計画の実行に本格的に着手した。

まずは、各村の村長たちを別邸に集め、合同の説明会を開く。


「―――以上が、今後の方針ですわ。異論のある方は?」


わたくしが提示した、具体的かつ合理的な計画に、最初は半信半疑だった村長たちも、最後には希望に満ちた顔で頷いてくれた。

それからは、まさに猫の手も借りたいほどの忙しさだ。

資材の調達、人員の割り振り、王都の商人との書簡のやり取り。

やるべきことは山のようにあったが、領地が少しずつ、良い方向へ変わっていく手応えに、わたくしはこれ以上ないほどの充実感を覚えていた。


そんなわたくしの活動を、アレクシス様は常に数歩後ろから、黙って監視――いや、観察していた。

時折、彼の方から「その資材の運搬なら、騎士団の馬を使えば半日で終わる」「その商人とは、騎士団も取引がある。俺の名前を出せば、多少の無理も聞くだろう」などと、助言をくれることもあった。


そのぶっきらぼうな優しさに、わたくしの心臓は度々跳ね上がったが、なんとか平静を装う。

そうして、わたくしたち二人の間には、いつしか奇妙な信頼関係のようなものが、芽生え始めていた。



そんな穏やかな(わたくし基準では)日々は、ある日、突然終わりを告げた。

王都から、一台の豪華絢爛な馬車が、土煙を上げてやってきたのだ。

馬車の扉に輝くのは、まごうことなき、レオンハルト王家の紋章。


そして、その中から現れたのは、わたくしが今、最も会いたくない人物たちだった。


「リリアンヌ! 君が、この辺境の地で、きちんと反省しているか、わざわざ視察に来てやったぞ!」


尊大な態度で言い放つ、元婚約者のユリウス殿下。

その腕には、これみよがしにアイラ・ミモザ嬢が絡みついている。


「まあ、リリアンヌ様、お久しぶりですぅ。こんな何もない辺鄙な場所で、さぞお辛い毎日でしょう…?」


その瞳には、隠しきれない優越感と、見え透いた同情の色が浮かんでいた。


(うわあ……。最高に面倒くさいのが、セットで来ましたわ……)


わたくしは、内心で深々とため息をついた。

しかし、表面上は、完璧な淑女の笑みを貼り付ける。


「まあ、ユリウス殿下、アイラ様。ようこそいらっしゃいました。このような何もない場所へ、わざわざご足労いただき、大変恐縮ですわ」


わたくしが優雅にカーテシーをすると、わたくしの半歩後ろに控えていたアレクシス様が、すっと前に出て、無言のまま片膝をついて礼をした。

その姿から放たれる氷のような圧に、ユリウス殿下は一瞬、たじろいだように見えた。


彼らの来訪の目的は、もちろん「視察」などではない。

最近、王都のサロンでは、こんな噂が囁かれていたのだ。

『リリアンヌ嬢が追放されたヴェルナー家の西の領地には、実はまだ未開発の、豊かな鉱山資源が眠っているらしい』と。

おそらく、この噂をどこかで聞きつけたアイラ嬢が、ユリウス殿下を唆したのだろう。


案の定、ユリウス殿下は、さも思いやりのある顔で切り出してきた。


「リリアンヌ。君が、このような痩せた土地を持て余している姿は、見ていられない。君に代わって、この土地の開発は、私が王家直轄の事業として、特別に行ってやろうではないか」


(よくもまあ、そこまで白々しく言えるものですわね)


わたくしは、その浅はかな魂胆に、もはや笑いさえ込み上げてくる。


「まあ、殿下。なんとご親切な申し出でしょう。ありがとうございます」


にっこりと、最高の営業スマイルで返す。


「ですが、ご存じの通り、この土地は我がヴェルナー公爵家が代々受け継いできた、大切な私有地。いかに王家といえども、個人の資産に手を出すのは、法に触れるのではなくて?」


「なっ……!」


「それに、鉱山の噂ですけれど、それはあくまで、ただの噂ですわよ? もし本当に、そのような儲け話が転がっているのなら、抜け目のない我がヴェルナー家が、とうの昔に開発しておりますわ。うふふ」


正論と、ほんの少しのハッタリ。

わたくしの余裕綽々の態度に、ユリウス殿下はぐっと言葉に詰まった。


すると、隣にいたアイラ嬢が、助け舟を出すように、わざとらしい甘い声を出した。


「ユリウス様! わたくし、この土地で苦しんでいる皆さんのために、わたくしの聖なる力で、お祈りをして差し上げたいですぅ!」


(はい、出ましたわ。お得意の聖女様ごっこ)


領民たちの前で、何かしらの「奇跡」とやらを見せつけ、人心をこちらに引き寄せようという魂胆だろう。

やり方が、いちいち浅はかですのよ。


わたくしは、これから始まるであろう茶番を思い、内心で二度目の深いため息をついた。


「ええ、よろしいのではなくて? きっと、領民たちも喜びますわ」


わたくしは、あえてその挑戦に乗って差し上げることにした。

背後では、アレクシス様が、心底うんざりとした冷たい空気を放っている。


王都からの厄介者の登場により、辺境の地でのわたくしの穏やかな(?)休暇は、新たな波乱の幕を開けたのだった。

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