第8話

自室に逃げ帰ったわたくしは、ベッドに突っ伏して足をばたつかせていた。


「わたくしの馬鹿! 大馬鹿者ですわ!」


枕に顔を押し付けて、声にならない叫びを上げる。

なぜ、あんな意味不明なことを口走ってしまったのでしょう!

『食事がお気に召しませんでしたの!?』ですって? 思い出しただけで、顔から火が出そうだ。


そして、極めつけはアレクシス様のあの一言。


『……いや、あなたが』


あなたが、気に食わない。

ああ、なんと直接的な拒絶のお言葉!

オブラートというものを、氷の騎士団長閣下は胃の中にでも置いてきてしまわれたのか。


(推しに、嫌われてしまった……)


その事実が、ずしり、と重くのしかかる。

もうおしまいですわ。わたくしの人生、終わりましたわ。

この謹慎生活、これから一体どんな顔をして、彼と向き合えばいいというの。


ずーん、と心が地の底まで沈み込んでいく。

こういう、精神的に極限まで追い詰められた時、わたくしには特効薬が必要だった。

それは、どんな傷も癒してくれる、魔法の霊薬。


(……甘いものが、食べたい)


そう、甘いもの。

蜂蜜をたっぷりかけた温かいミルクでも、クリームがふんだんに使われたケーキでも、砂糖を煮詰めただけのキャンディでもいい。

あの、脳髄が痺れるような、幸福な甘さが、今すぐ欲しかった。


しかし、『氷の華』とまで呼ばれたこのわたくしが、甘いものに目がないなどと、誰が想像するだろう。

公爵令嬢として、そしてユリウス殿下の婚約者として、常に完璧でなければならなかったわたくしは、長年その本性を封印してきたのだ。


(ですが、もう我慢の限界ですわ……!)


もはや、婚約者でもない。ただの謹慎中の身。

一口。ほんの一口だけでいい。

あの甘美な蜜の味を摂取しなければ、わたくしの精神は崩壊してしまう!


決意を固めたわたくしは、音を立てないよう、そっとベッドを抜け出した。



深夜の別邸は、しんと静まり返っている。

わたくしは、闇に溶け込む黒いガウンを羽織り、まるで密偵のように壁際を伝って厨房を目指した。

幸い、侍女のアンナも、護衛の騎士たちも、皆ぐっすりと眠っているようだ。


目的の厨房にたどり着くと、昼間の活気は嘘のように静まり返っていた。

月明かりだけが、磨かれた調理器具をぼんやりと照らしている。


わたくしは手慣れた様子で、奥にある食料庫の扉をそっと開けた。

ひんやりとした空気の中に、小麦粉やスパイスの香りが混じっている。

そして、棚の一番上に置かれた、素焼きの壺を発見した。


(ありましたわ!)


料理人が、明日のデザート用に焼いておいた、特製のハチミツクッキーの壺だ。

わたくしはそれを宝物のようにそっと抱え、厨房の隅の暗がりへと身を隠した。


蓋を開けると、ふわりと甘く香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

たまらない。

わたくしは、一枚のクッキーをつまみ上げ、こっそりと口に運んだ。


サクッ、という軽やかな食感。

次の瞬間、じゅわっとハチミツの濃厚な甘さが、舌の上でとろけていく。


(ああ……! 染み渡りますわ……!)


これですわ、これ! この味!

ストレスでささくれ立っていた心が、優しい甘さでみるみるうちに癒されていく。

甘いものは正義! 幸福の味ですわ!


わたくしは夢中で、もう一枚、またもう一枚とクッキーを頬張った。

普段の、氷のように冷たい仮面はどこへやら。

今のわたくしの顔は、きっと、リスのように頬を膨らませた、大変だらしない表情をしているに違いない。


その、至福の時間の、真っ只中だった。


「……何をしている」


背後から、氷のように静かな声が響いた。


びくっ!と、わたくしの全身が跳ね上がる。

恐る恐る振り返ると、そこには、腕を組んだアレクシス様が、仁王立ちでいらっしゃった。

暗闇の中、月明かりを背負って立つその姿は、まるで地獄の番人のようだ。


口の周りに、びっしりとクッキーのかけらをつけたまま、わたくしは完全にフリーズした。


(み、見られた……! この世の終わりのような醜態を、最推しである、この方に……!)


アレクシス様は、もぐもぐと口を動かしたまま固まっているわたくしを、心底信じられないものを見るような目で見下ろしていた。


「……悪役令嬢は夜更けに密談ではなく、盗み食いか」


その、あまりにも的確な皮肉の言葉に、わたくしの中で何かがプツリと切れた。


「なっ……! と、盗み食いなどと、人聞きの悪い! これは、日中の過酷な労働に対する、わたくしへの正当な報酬ですの!」


ほとんどヤケクソだった。

必死に言い訳をするわたくしの姿が、よほど滑稽に見えたのだろうか。


「……ふっ」


アレクシス様が、ほんの少しだけ、息を漏らすように笑ったのだ。

それは、本当に微かな変化だった。口元が、ほんの少しだけ緩んだだけ。

だが、わたくしは確かに、それを見た。


(え……? 今、閣下が、お笑いに……?)


一瞬、思考が停止する。

彼は、自分の表情筋が緩んだことに気づいたのか、すぐにいつもの無表情に戻ってしまった。


「……執事に言えば、いくらでも用意させたであろうに」


「べ、別に、わたくしは、甘いものが特別好きというわけでは……!」


「そうか」


彼はそれ以上は追及せず、わたくしの口元を、すっと指さした。


「……ついているぞ」


「えっ? あっ、うわっ!」


わたくしは慌てて口元を手で拭う。顔が、羞恥で沸騰しそうだった。


「……あまり夜更かしはするな。明日も早いのだろう」


アレクシス様は、それだけを言い残すと、くるりと背を向けて厨房から出て行った。


一人残されたわたくしは、クッキーの壺を抱きしめたまま、その場にへたり込んだ。

推しに醜態を晒した絶望感と、初めて垣間見た推しの微かな笑みへの興奮とで、心臓が、今にも張り裂けそうだった。

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