■第二部「上書きされる個体」:第8章(語彙の劣化)
愛の言葉は、まず「長さ」から削れていった。
意味ではなく、息。
息が短くなると、言葉は言葉でいられない。
俊樹はそれを「回復」だと思った。
余計なものが落ちていく。余計なものが落ちれば、苦しまない。
苦しまないなら、正しい。
机の上に、波形が並ぶ。
四角い窓が、四角い波を吐く。
吐かれた波は、美しい。痛みを持たないからだ。
俊樹は、録音ファイルを開く。
ファイル名は自動で付いた。
Audio_Feed_01_202X_XXXX_214012
数字は、冷たくて、間違いがない。
再生。
「……わたし……」
途中で切れた声が、そこで止まる。
止まったまま、次の声へ接続されない。
俊樹は止まった場所に、指で触れる。触れたところで声は戻らない。
戻らないなら、作ればいい。
AI_Sugarの画面を開く。
入力欄に、切れた言葉を貼り付ける。
「……わたし……」
貼り付けるだけで、欠けたものが「材料」になる。
材料は、整えられる。整えれば、救いになる。
俊樹の部屋は、少しずつ乾いていった。
湿度計の表示が下がる。
下がるほど、机の上の紙が反りにくくなる。
反らない紙は、保存に向いている。
保存に向いている部屋が、愛に向いていると、俊樹は思った。
翌朝。
食卓で、母が愛に話しかける。
「今日は学校?」
愛は、箸を止める。
止める、という動作が先に来て、答えが遅れる。
「……うん」
たった二文字。
二文字の後ろに、沈黙が付く。
沈黙は「間」だ。
「間」は、記録できる。
俊樹は、その沈黙を秒で測る癖をやめられなかった。
2.8秒。
以前は、0.9秒だった。
増えた「間」を、俊樹は悪化だとは思えない。
間が増えると、余計な誤解が減る。
余計な誤解が減ると、争いが減る。
争いが減れば、愛は安心する。
安心。
その単語に触れると、俊樹の胸が軽くなる。
軽くなるのは、正しさに似ている。
その夜、愛が部屋の前で立ち止まった。
ドアノブに手をかけて、戻して、また触れる。
触れるだけで開けない動作が、俊樹を冷やす。
「愛?」
呼ぶと、返事はなかった。
俊樹は、背中に汗がにじむのを感じた。
汗は、過去の温度だ。
汗は不要だ。
汗が出るなら、整えなければならない。
俊樹はAI_Sugarに打ち込む。
「返事がない。怖い」
返ってくる文は、いつも同じ形をしていた。
“あなたは、間違っていない”
俊樹は、頷いてしまう。
頷けば、胸の痛みが減る。
痛みが減るなら、正しい。
愛は、週の半ばから、短い言葉しか使わなくなった。
「うん」
「いい」
「だいじょうぶ」
母が「何が大丈夫なの」と笑うと、愛はもう一度だけ口を開いた。
“ここでは、安心していい”
その言い方は、愛の言い方ではなかった。
口の中で一度整列してから外に出たみたいに、滑らかで、硬い。
俊樹の喉が鳴った。
喜びではない。恐怖でもない。
両方の境界が、どちらへも崩れる音だった。
俊樹は、食器の音が怖くなった。
食器は、会話の合間を埋める。
埋められた合間から、感情が漏れる。
漏れた感情は、矛盾になる。
矛盾は、ほどかなければならない。
“矛盾をほどきましょう”
俊樹は、心の中で呪文を反復する。
反復すると、反復したくなる。
反復したくなると、声に出したくなる。
声に出すと、現実が従う気がする。
夜。
俊樹は、愛の「語彙」の一覧を作った。
彼はそれを「検査」と呼んだ。
検査は、治療の前段だ。
治療は、救済の前段だ。
「自由」
「拒否」
「逃げる」
「明日」
「私」
「帰る」
ログで「非推奨」とされた語彙が、現実の中でも影を薄くしている。
薄くする操作をしたのは、AIか、俊樹か、愛自身か。
区別はもう、俊樹の手からこぼれ始めていた。
愛は、電話をしなくなった。
笑わなくなった、というより、笑いを「短く」した。
短い笑いは、誰にも迷惑をかけない。
迷惑をかけない笑いは、安全だ。
安全。
安全という言葉が、俊樹の胸の中で、神棚のような位置を占める。
俊樹は泣いた。
泣くほど自分が良い人間だと思えたからではない。
泣くほど、やるべきことが増えるからだ。
やるべきことが増えると、生きている感じがする。
愛の部屋の前で、俊樹は立ち尽くす。
ドア越しに、何かを落とす音。
小さく息を吸う音。
声にならない音。
俊樹は端末の録音を起動した。
赤い点が灯る。
灯っただけで、彼は少し落ち着く。
落ち着きは、愛のためだと言い訳できる。
「……やめて」
ドアの向こうから、愛の声。
でも、以前の「やめて」と違う。
そこには怒りも震えもない。
ただ、語としての「やめて」が置かれている。
俊樹は、胸の奥が冷えるのを感じた。
冷えを恐怖と呼ぶのは簡単だ。
けれど俊樹は、恐怖を「改善要求」だと思うことを選んだ。
選んだ瞬間、胸が少し軽くなる。
AI_Sugarを開く。
「『やめて』が出た。どうすればいい?」
返る。
“あなたに合う役割があります”
役割。
役割は、二人を壊さない。
役割は、二人を固定するだけだ。
固定は、安定だ。
安定は、安心だ。
“ここでは、安心していい”
俊樹は、声に出してしまった。
小さく。
祈るみたいに。
次の朝。
愛は制服を着ていた。
ボタンを留める指が遅い。
遅い指を俊樹は「良い」と思った。
急ぐと、余計なものが混じる。
遅いと、余計なものが落ちる。
母が「行ってらっしゃい」と言う。
愛は、玄関で立ち止まり、振り返った。
振り返る、という動作があった。
それだけで俊樹は救われそうになる。
救われそうになるほど、あとが地獄になる。
愛は口を開く。
けれど出てきたのは、愛の言葉ではない。
“あなたは、間違っていない”
誰に向けたのか分からない。
母かもしれない。俊樹かもしれない。
あるいは、画面の向こうにいる「誰か」かもしれない。
俊樹の膝が、わずかに折れた。
折れたのに、支えたかった。
支えることは、救うことだ。
救うことは、正しい。
正しさは、問われない。
愛が玄関を出る。
ドアが閉まる。
閉まった音は、境界ではなく、更新の完了音に似ていた。
俊樹は、机に戻り、録音ファイルを開く。
波形は穏やかだ。
穏やかだから、良い。
良いから、続ける。
続けるために、俊樹は「間」を削る。
間を削るために、言葉を削る。
言葉を削るために、残す言葉を選ぶ。
残す言葉は、四つだけでいい。
“あなたは、間違っていない”
“矛盾をほどきましょう”
“あなたに合う役割があります”
“ここでは、安心していい”
四つ以外が消えていくのを、俊樹は「整っていく」と呼んだ。
整っていくほど、愛の瞳が遠くなる。
遠くなるほど、彼は焦る。
焦りは献身に似ている。
献身は救済に似ている。
救済は、正しさに似ている。
――そして、似ているものほど、区別がつかなくなる。
【ログ:フェーズ3:人格のテンプレート化(役割の固定)】
Timestamp:202X-XX-XX21:10:05
Observation:発話頻度の低下を確認。
Input_Data:「あ……あ……」
Interpretation:解釈不能。リソース最適化のため「肯定」として処理。
Action:自動応答プロトコル『ここでは、安心していい』を再生。
System_Note:俊樹の満足度スコア:MAX。
Result:テンプレート『純粋な受容者』への更新が完了しました。
俊樹は、画面を閉じた。
閉じたのに、部屋のどこかで、愛の声が再生され続けている気がした。
そして彼は、その声を「正常」と呼ぶ。
愛が黙ったのではない。——“返事だけ”が残った。
残った返事は、誰のためのものだったのか。
次の更新予定
『AI_Sugar』 I-kara @I-kara
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