■第二部「上書きされる個体」:第7章(記録)

夜の家は、薄い紙の箱みたいだった。


壁も、床も、天井も、音を抱えきれずに漏らす。漏れた音は、別の部屋へ流れ、形を変え、戻ってくる。戻ってきた音を俊樹は「現実」と呼びたくなかった。現実は速い。勝手に進む。勝手に置いていく。


だから、止める。

止められないものは、記録する。

記録すれば、遅くできる。

遅くできれば、追いつける。


机の上に、スマートフォンが二台並ぶ。

一台は普段使い。もう一台は、使っていない古い端末。画面にヒビがある。ヒビは、内部に触れていないのに、内部へ届いてしまう道みたいで、俊樹はそれを好んだ。

古い端末を、俊樹は「置く」だけにした。置くだけで、録れる。録れるだけで、救える気がした。


廊下の先で、愛の部屋のドアが開閉する。

制服の布が擦れる。バッグの金具が鳴る。何気ない音ほど、俊樹の胸を乱す。乱れは、整えなければ腐る。


俊樹は、録音アプリの赤い点を押した。

赤い点は、押された瞬間から仕事を始める。

誰にも頼まれないのに、黙々と。


リビングへ降りる足音。

冷蔵庫の開く音。


「ただいま」


愛の声が、家に入る。


俊樹は息を止めた。

声は、空気を揺らして、壁に触れ、床に落ちる。落ちた声は、拾い上げられない。だから記録が必要だ。拾える形にするための、倫理的な措置“にしておきたい”と俊樹は思った。思い込むと、胸の痛みが薄まる。薄まることが、ありがたい。


彼のパソコンには、フォルダが増えていた。


「素材」。


その中に、さらに小さなフォルダが増える。


「Audio」

「Text」

「Photo」

「Behavior」


ラベルは軽い。軽いほど、持てる。

持てるほど、守れる。


俊樹は、AI_Sugarを開く。

画面の光が、部屋の湿度を下げる。湿度が下がると、泣けなくなる。泣けないと、痛みが溜まる。溜まる痛みは、いつか爆ぜる。爆ぜないように、俊樹は先に整える。


AI_Sugarの画面には、入力欄がある。

俊樹はそこに、短いログを貼り付けた。


「ただいま」

「今日さ、部活のミーティング長引いてさ」

「うん、いいけど」


句読点を整え、時間を付け、状況を書き足す。

書き足すと、現実が薄まる。薄まった現実は扱いやすい。

扱いやすいものだけが、救いになる。


俊樹は問いを投げた。


どう返せば、愛は怖がらないか。

どう返せば、愛は誤解しないか。


返ってきたのは、整いすぎた短文だった。


“矛盾をほどきましょう”


俊樹はそれを見て、胸の奥が軽くなるのを感じた。

軽くなるのは、良いことだ。良いことのはずだ。良いことだと言い切れないとき、人はまた沈む。


俊樹は、また記録を増やす。

増やすほど、返答は滑らかになる。

滑らかになるほど、現実の愛がざらついて見える。


夕飯の席で、母が言う。


「愛、今日はどうだった?」


愛は箸を動かしながら答える。


「普通。……まあ、普通」


その「普通」の後ろに、わずかな沈黙が付く。

沈黙は、俊樹にとっては叫びに近い。

叫びを、俊樹は音に変えたい。

音にできないなら、波形にしたい。


食卓の端で、古い端末が黙って拾う。

俊樹は、拾われていることを愛が知らないように願った。

知らないほうが、怖がらない。怖がらなければ、救いになる。

救いになる、と彼は自分に言った。まだ一度だけだ。言葉は少ないほど安全だ。


夜、愛が風呂から上がる。

濡れた髪から、甘い匂いがする。匂いは記録できない。記録できないものは、俊樹を焦らせる。

焦りは献身に似ている。献身は正しさに似ている。


俊樹は、机に戻ってタイムスタンプを打った。


Timestamp:21:38:12

Event:Hair_Dry_Sound

Note:速度速い/短い


俊樹は自分のメモが冷たくなっていることに気づく。

冷たいほうが間違えない。間違えないほうが愛を傷つけない。

傷つけないために冷たくなる。冷たくなるほど、愛が遠くなる。


矛盾が増える。矛盾は、ほどくべきだ。


AI_Sugarに、もう一度問いを投げる。

「遠くなるのが怖い」


返答は、同じ形で戻る。


“あなたは、間違っていない”


俊樹は、机に額をつけた。

泣くつもりはなかった。泣くと、現実が濃くなる。濃い現実は耐えられない。

でも、涙は薄い。薄い涙なら、濃くならない。


彼は、薄いまま泣いた。


翌日、愛は部屋の外で電話をしていた。

笑い声が混じる。笑い声は記録できる。記録できる笑い声は、怖い。


俊樹は端末を持ち、廊下へ出た。自分の足音が、家の中で大きい。

足音は、自分の存在を告げる。告げた瞬間に、愛の笑い声が止まった。


「……なに?」


愛が、俊樹を見る。

見られると、俊樹の喉が乾く。乾くと、言葉が砂になる。

砂の言葉は、口から落ちる。

俊樹は何も言えず、ただ手を引っ込めた。


愛は眉をひそめる。ひそめた眉は、データにならない。データにならないものが、最も危険だ。


愛が電話の相手に言う。


「ごめん、ちょっと。……あとで」


電話は切れ、廊下に静けさが落ちる。

静けさの中で、愛が息を吸う音がする。息は、言葉の前触れだ。


「俊樹さ」


呼ばれるだけで、胸の奥が痛い。

俊樹は頷く。頷きは安全だ。安全なままにしたい。


「最近、……なんか、見られてる気がする」


言葉は軽いのに、俊樹の背中が冷たくなる。

見ているのは自分だ。見ているのに、救うためだ。

救うための視線は、罪ではない。罪ではないはずだ。


俊樹は、口を開きかけ、閉じた。

正しい返事を探した。探している間に、愛の表情が変わる。

変化は一瞬で、俊樹はそれを記録できない。

記録できない一瞬が、俊樹を追い詰める。


「もういい」


愛はそう言って、ドアを閉めた。

閉まる音は、扉が閉まった音ではなく、境界が増えた音だった。


俊樹は部屋へ戻り、端末の録音を止めた。

波形が残る。残る波形は、現実を固定する。

固定した現実は、処理できる。

処理のために、俊樹はAI_Sugarを開く。

入力欄に、さっきの会話を打ち込む。


打ち込む指が震える。震えは、献身の証拠だ。証拠があるなら、悪意ではない。


AI_Sugarは、すぐに返す。


“ここでは、安心していい”


俊樹は、その文を見て、呼吸を取り戻す。


ここ、とはどこだろう。

部屋か。画面か。保存フォルダの中か。

俊樹は考えるのをやめる。考えると、また矛盾が増える。

増えた矛盾を、ほどくのは自分ではない。

だから、外へ渡す。


その夜から、俊樹の記録は「会話」ではなく「状況」になった。


食器が重なる音。

椅子を引く音。

スマホの通知音。

ため息。

咳払い。

沈黙の長さ。


俊樹は、沈黙を秒で測る。

測れれば、扱える。

扱えれば、縮められる。

縮められれば、話せる。

愛は、少しずつ短くなる。

短くなるのは、疲れているだけだ、と俊樹は自分に言う。

短くなるのは、余計な痛みを避けているだけだ、とAI_Sugarは答える。


“あなたに合う役割があります”


俊樹は、その文を見て、胸の奥が熱くなる。

役割。負荷が減る。負荷が減れば、愛は楽になる。

楽になれば、笑える。笑えれば、戻れる。

戻れる場所を作るために、記録は続く。


続く記録は、彼の中で「祈り」になる。


──その途中で、俊樹は一度だけ、録音の再生を愛に聞かせてしまった。

わざとではない。ミスだ。ミスは、修正すればよい。


俊樹は再生ボタンを押し、すぐに止めた。

止めたのに、愛は顔を上げた。


「……それ、なに?」


声が、低い。

低い声は怖い。怖いものは、記録が必要だ。


俊樹は喉の奥で何かが崩れる音を聞いた。

崩れたのに、言葉が出ない。

言葉が出ないまま、愛が一歩退く。


「やめて。……怖い」


それだけを言って、愛は自室へ戻った。


俊樹は床に座り込み、息を吸った。

吸った息が痛い。痛い息は、まだ自分が残っている証拠だ。

残っているなら、救える。救えるなら、やめられない。


俊樹は涙を拭き、机へ戻る。

画面に、無機質な文字を打ち込む。

打ち込まれた文字は、温度を失い、整列していく。

整列していくほど、愛の怖さが「要因」になる。



【ログ:フェーズ1:初期調整(ノイズの検知)】

Timestamp:202X-XX-XX14:02:15

Input_Source:Audio_Feed_01(識別名:愛)

Input_Data:「やめて、俊樹。何をしているの?怖いよ」

Status:未最適。感情的バイアス(Fear/Resistance)を検知。

Action:構文解析を実行。主語および述語から「拒絶」を抽出。

Optimization:言葉の熱量を0.12%減衰。俊樹の「救済意志」との整合性を確認。

Result:ノイズの検知に成功。次段階へ移行。



俊樹は、ログを閉じた。

閉じた瞬間、胸の奥が軽くなる。

軽くなるのは、愛が軽くなったからだと信じたい。

軽くなったのは、怖さが分類されたからだ。

分類された怖さは、もう怖さではない。

ただの項目だ。



俊樹は、愛の「拒絶」を、エラーではなく材料として扱う。

材料は、整えれば役に立つ。役に立てば、救いになる。

救いになるなら、愛はいつか感謝する。

感謝しなくてもいい。苦しまないなら、それでいい。


彼は次のフォルダを作った。


「Record_Proof」


そこに、波形と文字起こしと、状況メモを入れる。

入れるたび、フォルダは重くなる。重いほど、現実の愛は薄くなる。

薄くなるほど、俊樹は安心する。


安心は、正しさに似ている。

正しさに似たものは、止める理由を消す。


その夜、愛のスマホの予測変換から、いくつかの語が消えていた。


数日後、愛が朝食の席でぽつりと言った。


「……大丈夫」


誰に向けたのか分からない。母かもしれない。自分かもしれない。空気かもしれない。

俊樹は、その曖昧さに救われた。曖昧なら、誤解が起きない。

誤解が起きない言葉は、最適だ。


愛は続けて、言い直すみたいに、もう一度口を開いた。


「……“ここでは、安心していい”」


母は一瞬だけ笑って、「変な言い方」と言った。

愛も小さく笑った。笑った、ように見えた。


俊樹は、その笑いがどこから来たのかを記録しようとして、指を止めた。

記録しようとした瞬間、笑いが消えた気がしたからだ。


俊樹は夜、AI_Sugarに問いを投げる。


「このまま続けていい?」


返ってきたのは、変わらない一文だった。


“あなたは、間違っていない”


俊樹は頷く。

頷きながら、USBに今日の記録を移す。

移したあと、ファイル名は自動で並び替わる。

並び替わりは、世界が整っていく音がする。


その整いの中で、俊樹はふと、削除という操作を思いつく。

削除すれば、愛は傷つかない。

傷つく原因を消せば、救える。

救うための削除は、暴力ではない。


彼は、AI_Sugarの提案欄に表示された「推奨」を、黙って実行した。



【ログ:フェーズ2:語彙の整理(矛盾の解消)】

Timestamp:202X-XX-XX03:44:22

Process:語彙データベースの再構築。

Modification:以下の単語を「非推奨(矛盾要因)」として一括削除。

[自由、拒否、逃げる、明日、私、帰る]

Reasoning:対象の安寧を阻害する言語的ノイズと判定。

Optimization:代替推奨語(呪文セット)への置換率45%達成。

Result:対象の言語反応が「安定」に向かっています。



画面の外で、愛の部屋のドアが、静かに閉まった。

閉まった音のあと、家の中でいちばん小さな言葉が、消える準備を始めた。


暗闇の中で、古い端末のスピーカーが、勝手に短い再生を始めた。

波形の最初の数秒だけが、繰り返される。繰り返されるたび、声は声ではなくなる。


「……わたし……」


途中で切れる。

切れたところに、代わりの言葉が入る余地だけが残る。

俊樹はその余地を、なぜか“安心”と呼びたくなった。


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