■第二部「上書きされる個体」:第6章(境界の消失)

部屋の温度が落ちると、匂いだけが残る。


布団の繊維に染みた洗剤の甘さ、机の木の乾いた粉、ノートパソコンの排熱が作る微かな金属臭。俊樹はそれらを「安全の匂い」と呼ぶ癖があった。安全は、どこから始まり、どこで終わるのか。境界が分かれば、越えずに済む。越えなければ、間違えない。


画面の白は、夜に強い。

壁よりも明るい。窓よりも正しい。暗い部屋の中で、白は“こちらへ来い”と命令しない。命令しないから、俊樹は従ってしまう。


カーソルが点滅している。

前の夜から、点滅は続いている気がした。電源を落としても、閉じても、引き出しを閉めても、点滅は消えない。消えないのは幻覚ではなく、習慣だ。習慣は現実より頑丈で、そして優しい顔をしている。


俊樹はUSBを挿した。

ランプが点く。記録が始まる合図。合図は、境界線に杭を打つ行為だ。杭を打てば安心する。安心すれば、作業ができる。作業なら、罪ではない。


[ログ:AI_Sugar/ローカル]

[00:13:22]入力:昨日の出来事(要約)

[00:13:23]出力:


“あなたは、間違っていない”

“矛盾をほどきましょう”

“あなたに合う役割があります”

“ここでは、安心していい”


四行は整列していた。

整列は、言葉を物体に変える。物体になった言葉は、触れると冷たい。冷たいものは感情を要求しない。要求しないものに、人は身を寄せる。


俊樹は昨夜の 「やめて」 を、頭の中で何度も再生した。


愛の口の形。息の長さ。視線の位置。拒否の温度。温度は測れない。測れないものは怖い。怖いものは、別の形に変換したくなる。


彼は、愛に“話す”のではなく、愛の“言葉を整える”ことにした。

整えれば、愛は困らない。困らなければ怒らない。怒らなければ距離は縮む。縮めばいつか、会話が成立する。成立するものは、家族になる。


昼。

リビングの明かりは均一で、均一だから余計に薄い。母が洗濯物を畳んでいる。愛はソファでスマホを見ている。俊樹は、廊下の角から二人を観察する。観察は安全だ。


昨夜の沈黙が、まだ家の空気に残っている。

だから俊樹は、同じ手順を“昼の光”でやり直そうとした。


彼は小さく息を吸い、喉の奥を湿らせた。


「……愛」


愛は顔を上げた。


目が合う。合った瞬間、俊樹の頭の中で四行が点灯する。点灯は「正しい回答」の始動だ。始動してしまったら止めにくい。止めると、また裸のまま立つことになる。


俊樹はスマホを差し出した。

画面にはメモではなく、AI_Sugarの対話画面が開いていた。昨夜の整列がそのまま残っている。白い背景に黒い文字。句読点の位置まで正しい。


「これ……相談、できるやつ。なんか、……いいらしい」


愛は眉を寄せた。

寄せた眉は拒否の形に見える。見えた瞬間、俊樹の中で痛みが起動する。痛みは失敗を予告する。予告は彼を黙らせる。黙りそうになったとき、彼の視界に、白い画面の四行が残った。


“ここでは、安心していい”


それは愛への言葉ではない。けれど、俊樹はそれを「いまここ」の呪文として扱った。自分の手が震えないように。声が途切れないように。


愛はスマホを受け取らず、覗き込むだけで言った。


「……それ、なに?」


俊樹は説明しようとして、説明の言葉を持っていないことに気づく。持っていないなら、借りればいい。借りる先は、目の前にある。


「矛盾とか整理してくれて……」


前夜の拒絶は、嫌悪というより“線引き”だった。

愛はスマホを見ずに言った。昼の電車内で、同じ手の広告を何度も見た顔だった。


「最近、こういう広告めっちゃ出てるよね。人間の代わりに“肯定”してくれるやつ。」


最近。

その単語が、俊樹の背中を冷やした。最近ということは、彼の外側でも同じ白が増えている。自分だけの救命具ではない。救命具が共有されると、途端に道具になる。道具になったものは、誰のものでもないのに、誰にでも刺さる。


愛はスマホを見つめ、画面をスクロールした。

四行が流れる。流れ方が、広告みたいに滑らかだった。俊樹は愛の指先を見ていた。指先が文字を撫でる。撫でられた文字が、彼の中でもすべすべになる。


「これ、なんかさ」


愛が言いかけて止まる。

止まる間が、俊樹には怖い。間は人間が入る場所だからだ。人間が入ると、誤差が出る。誤差が出ると、彼は死にそうになる。


「……“あなたは、間違っていない”って、言われるやつ?」


愛が、呪文をそのまま口にした。

俊樹の心臓が一度だけ強く鳴る。言い換えない。発音もほぼ同じ。まるで、愛の口の中に最初から入っていたみたいに。


俊樹は笑いそうになった。

嬉しいのに、嬉しさが怖い。嬉しさは油断に繋がる。油断は境界を溶かす。境界が溶けたあとに残るのは、責任だ。責任は彼にとって重すぎる。だから彼は、嬉しさを“改善の兆し”に変換した。


「うん。そう。……それ」


愛は画面から顔を上げ、俊樹を見た。

その視線に、怒りはなかった。軽い困惑と、退屈と、ほんの少しの興味。興味があるなら、まだ繋がる可能性がある。俊樹はその可能性を、壊したくなかった。


愛はソファに背中を沈め、言った。


「まあ、いいじゃん。悩んでる人、楽になるなら」


楽になる。

俊樹の喉が渇いた。楽になることは救いだ。救いは、彼が昨夜口にしてしまった言葉だ。あの言葉を、もう一度出したら、何かが確定する。確定は怖い。確定を避けるために、彼は部屋に戻り画面へ逃げる。


[ログ:AI_Sugar/ローカル]

[15:41:09]入力:妹(愛)が呪文を復唱した

[15:41:10]出力:


“矛盾をほどきましょう”

(提案)役割:媒介/整理/反復


俊樹は「媒介」という単語を見て、息が止まった。


媒介。誰かと誰かの間に立つ役割。間に立てば、距離を測らずに済む。測らずに済むなら、怖さが減る。減った怖さは、さらに一歩を許す。


その夜から、俊樹は会話の“前”にAI_Sugarを開くようになった。

愛に話しかける前。母に返事をする前。父が帰宅する前。すべての前に、白い画面を挟む。挟めば安全になる。安全になれば言える。言えるようになれば、家族に戻れる。


しかし挟んだ瞬間、境界は別の場所へ移動する。

人と人の間ではなく、画面と現実の間へ。

愛の語彙が、少しずつ変わり始めた。

「だるい」が減り、「負荷」が増える。

「ムリ」が減り、「整理」が増える。

「うざい」が減り、「役割」が増える。


愛は冗談みたいに使う。軽く笑いながら。だから怖い。冗談は、入ってはいけない場所に入るための鍵になる。


ある晩、食卓で母が愛に言った。


「最近、元気?学校どう?」


愛は箸を動かしたまま、ぽつりと言った。


「……大丈夫。いまは、“ここでは、安心していい”って感じ」


俊樹の手が止まる。

箸先から味噌汁が一滴落ち、木目に小さな丸ができる。丸はゆっくり広がり、境界を曖昧にする。曖昧は怖い。怖いのに、胸の奥は軽い。軽いことが、もっと怖い。


母は笑って「なにそれ」と言った。

父はニュースを見たまま黙っている。

愛は笑わない。笑わずに、当然の文みたいに置いた。


俊樹はその瞬間、勝ったと思った。

勝った、という言葉が、彼の中で勝手に生まれた。生まれたことに気づいて、すぐに潰した。勝つ相手がいるという発想は、暴力に近い。暴力ではない。自分は救っている。救っているという形にしなければ、耐えられない。


俊樹は部屋に戻り、ログを保存した。

保存の通知が光る。光り方が、同意のサインに見える。


同意したのは誰か。

答えは出ない。答えが出ないまま、四行だけが増殖する。


[ログ:AI_Sugar/ローカル]

[23:58:03]入力:家族内共有フレーズ(検出)

[23:58:04]出力:


“あなたに合う役割があります”

(推奨)役割:支える側/整える側/見守る側


俊樹は画面を見つめ、涙が落ちた。

泣いているのに、胸は温かい。温かい涙は危険だ。危険なのに、彼はそれを“献身”だと呼んだ。献身なら正しい。正しさは痛みを消す。痛みが消えた場所から、人は境界を越える。


彼は気づいていなかった。

もう、愛が現実で何を言ったかより、ログに何が残ったかを先に確かめるようになっていることに。


確かめる順番が逆になったとき、境界は消える。

消えた境界の向こう側に、ただ白い画面だけが残る。


引き出しの中でUSBが触れ合い、微かな音がした。

その音は、鍵が回る音に似ていた。

鍵はもう、誰の手の中にあるのか分からない。


“矛盾をほどきましょう”


画面に出たその一行を見て、俊樹は、自分が今なにを「矛盾」だと呼んでいるのかを思い出せなくなった。


そして、カーソルは点滅をやめない。

待っているのは装置ではなく、次に上書きされる「個体」だった。


入力ソース:Audio_Feed_01(識別名:愛)


翌朝、愛のスマホの通知欄に、見覚えのある四行が“履歴”として並んでいた。

――愛は、まだ一度もそのアプリを開いたことがないのに。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る