■第一部「救済の論理」:第3章(学習素材)

愛が家にいない日は、家そのものが少しだけ軽くなる。


足音が減る。笑い声が減る。冷蔵庫の開閉が減る。減ったぶんだけ、部屋の壁が薄くなる。音がないのに、外の世界が近づく。


俊樹は、その軽さを嫌った。


愛がいるときは息が詰まるのに、いないときは息が抜けすぎて、どこかへ飛んでいきそうになる。自分の重さが保てない。部屋という世界の床が、たまに軋む。

母が朝から忙しそうにしていた。


「愛、今日は部活のあと、友達とご飯食べてくるって」


報告はただの事実で、母の声もいつもと変わらない。それなのに俊樹の胸の奥では、誰かが薄い紙をめくる音がした。予定が更新される音。自分とは関係のないところで世界が進んでいく音。


「……そう」


返事が自分の耳に届く前に消える。声は空気を揺らすために出るのに、俊樹の声は揺れを残さない。


母が台所に戻ると、家の中が静かになった。

静かになると、静かであることに耐えられなくなる。俊樹は机に向かい、ノートの余白に昨日の四行を眺めた。


“ここでは、安心していい”


“あなたは、間違っていない”


“矛盾をほどきましょう”


“あなたに合う役割があります”


並んだ文字は、部屋の湿度を少しだけ整える。けれど同時に、彼の中に別の気配を呼び込む。


――確かめたい。


確かめたいのは、愛の気持ちだった。愛の声色だった。愛が何を見て、何に腹を立て、何を好きだと思い、何を嫌いだと思うのか。

それがわかれば、距離が測れる形になる。測れるなら、縮められる。

縮められるなら、話せる。


俊樹は、自分の欲望を「欲望」と呼ばないようにしてきた。

呼んだ瞬間に、汚れる気がしたからだ。汚れたら、自分が守ってきたものが崩れる。

だから彼は、それを別の言葉に置き換える。


収集。


整理。


理解のための準備。


学校の図書室で、彼は何度も同じ棚を往復した。心理学、コミュニケーション、会話分析、認知の歪み。どれも「人間を説明する」本だったが、愛は説明の中にいなかった。


説明の中にいないものを、説明の外に取り出す方法は一つしかない。


「素材」を集めること。


俊樹は立ち上がり、部屋のドアを開けた。

廊下の空気が少し冷たかった。冷たさが肌に触れると、現実が始まる。彼は小さく息を吸い、階段を降りた。


リビングのテーブルには、愛が朝に置いていったらしい消しゴムのカスが残っていた。小さな白い粒が、誰かの指先の努力を証明しているみたいで、俊樹はそれを見るだけで胸が締まった。


愛の部屋は二階の奥だ。俊樹の部屋と向かい合う位置にあるのに、距離は同じではない。扉の材質も、取っ手の形も、貼られているステッカーも違う。


違いがあるから、向こう側が遠い。


俊樹は、愛の部屋の前で立ち尽くした。

ノブに触れれば、境界を越えることになる。越えることは怖い。怖いのに、越えなければ永遠に測れない。


測れない距離は、縮まらない。


階下から母の食器の音が聞こえた。聞こえるということは、母がこちらを見ていないということだ。


俊樹はゆっくりとノブを回した。


鍵はかかっていなかった。


それだけで、胸の奥が熱くなった。自分が許されたような錯覚が生まれる。許されたわけではない。鍵がかかっていないだけだ。それでも彼の中では、誰かが「いいよ」と言った気がした。


部屋の中は、甘い洗剤の匂いがした。彼の部屋とは違う匂い。柔らかい匂い。匂いの中に、愛の輪郭がある。


ベッドの上には制服のスカートが畳まれていて、机の上には色の違うペンが散らばっている。壁にはプリクラが貼られ、笑っている顔が並んでいた。


笑っている。笑っているのに、俊樹は少しだけ息が苦しくなる。


自分の知らない笑顔が、こんなにたくさんある。


俊樹は、まず「何もしない」ことから始めようとした。

触れない。動かさない。勝手に開けない。


ただ観察する。


観察なら、加害ではない。観察は理解のためだ。理解は救いのためだ。


救い。


その言葉が自分の中で浮かんだ瞬間、俊樹は軽く震えた。まだ早い。ここでその言葉を使うと、何かが決まってしまう。


机の端に、愛のノートが積まれていた。

表紙に小さく名前が書かれている。俊樹は指先を近づけ、触れずに止めた。触れたら温度が移る。温度が移ったら、もう戻れない。


けれど次の瞬間、彼はページをめくっていた。

紙が擦れる音は小さく、罪の音みたいに聞こえた。ノートの中身は学校の授業の板書だった。図形、英単語、歴史の年号。どれも普通の、無害な情報。無害だからこそ、


俊樹は安心した。


普通でいてくれることが、ありがたい。


数ページめくったところに、別の筆圧が混じっていた。

授業の線の上に、少し丸い字が乗っている。誰かのメモ。愛のメモ。


俊樹の心臓が一度だけ強く鳴った。


――ここに、愛がいる。


書かれていたのは短い箇条書きだった。


・文化祭、○○の屋台いきたい

・帰りにコンビニ寄る

・嫌い:曖昧な返事

・好き:はっきり言う人


たったそれだけ。


それだけなのに俊樹は、胸の奥の結び目がほどけるのを感じた。愛の輪郭が、紙の上に現れている。輪郭なら、測れる。測れるなら、近づける。


俊樹はスマホを取り出し、そのページを撮った。

シャッター音は鳴らない設定だった。それでも、彼の耳には「撮った」という音が残った。


指先が遅れて冷たくなる。


今、自分が越えたものの名前を、彼はまだ知らない。


削除はしなかった。

削除すれば、この瞬間はなかったことになる。なかったことになれば、また何も分からない場所に戻る。


分からない場所に戻るくらいなら、

何かを壊してでも、分かる側に立ちたい。


彼はそれを「罪」と呼ばなかった。

罪と呼んだ瞬間、これは悪になる。悪になれば、自分はここまで耐えてきた時間ごと否定される。


耐えてきた時間が無意味になるくらいなら、

彼はまだ、正しい側に立っていたかった。

救う、という言葉だけが先に立った。

それが誰を指すのかは、まだ要らなかった。


考え始めると結び目が増える。俊樹は考えるのをやめ、作業に戻った。

引き出しの中には、シール、メモ帳、小さなヘアピン、ライブの半券が入っていた。

彼は一つひとつを並べ、写真を撮った。並べる理由はない。撮る理由も、本当はない。


それでも俊樹は「素材」としてそこに意味を与えることで、自分の手を正当化した。

正当化は、彼にとって麻酔だった。


スマホの画面に、撮った写真が増えていく。


プリクラの端に写る指の形。

ペンのキャップの色。

ノートの角の擦れ。

誰かの名前の断片。


断片が増えるほど、愛が近づく気がした。

近づいた気がするほど、現実の愛は遠くなるのに。


俊樹は机の上のパソコンを見た。

家族で共有している古いノートパソコンではない。

愛の机に置かれたままの、触れられるはずのなかった機械だ。


けれど画面に映るのは、彼のものではない断片ばかりだった。

俊樹は一度だけ深呼吸し、電源ボタンに指を置いた。


押さない、と決めていた。

決めていたのに、指が勝手に沈んだ。


画面が明るくなり、起動音が鳴る。


俊樹の背筋に汗が走った。音は外へ漏れる。外へ漏れれば、誰かに気づかれる。

誰かに気づかれることよりも、自分が「ここまで来た」ことに気づいてしまうのが怖かった。


パスワード入力画面が出た。


俊樹は固まった。ここで止まれる。止まれるはずだ。


なのに彼は、ためらいながらも、愛の誕生日を入力した。数字は指に馴染んでいる。家族だから知っている。それが、こんな形で使われることは想定されていない。


ログインできた。


俊樹の喉が鳴った。


許されてしまった、と彼はまた錯覚する。システムが許したのではない。数字が合っていただけだ。


合っていただけなのに、彼は救われたような顔をしてしまう。救われたくて、ここに来たのだから。


デスクトップには、フォルダがいくつも並んでいた。


「写真」「レポート」「音楽」「友だち」


どれも明るい名前だ。明るい名前は、俊樹には扱いづらい。触れれば汚してしまう気がする。


彼はカーソルを慎重に動かし、「レポート」を開いた。


中には学校の提出物が入っていた。文章がいくつもある。短い作文、感想文、クラス目標の原案。


俊樹はその一つを開き、読み始めた。


愛の文章は、想像よりも静かだった。


教室での愛は明るいのに、文字になると、熱が少しだけ引いている。余計な飾りがない。結論に向かって、まっすぐ進む。


俊樹はそのまっすぐさに息を詰めた。まっすぐな文章は、嘘をつけない。嘘をつけないものは、怖い。


けれど同時に、まっすぐな文章は救いでもあった。読めば、愛がどこに立っているかがわかる。立っている場所がわかれば、距離が測れる。


俊樹は、文章を自分のUSBにコピーした。


コピーは盗みではない、と彼は思った。


画面の端で、「最近使った項目」が一瞬だけ更新された。


愛のフォルダ名が、俊樹の指のあとを追うように並び替わる。


俊樹はその変化を見なかったことにして、カーソルだけを戻した。


元は消えない。減らない。愛の手元に残る。自分は増やしているだけだ。

増やすことは悪ではない。研究も学習も、増やすことで成り立つ。


そういう理屈が、俊樹の頭の中では整っていく。

整っていくほど、胸の痛みが薄れる。

痛みが薄れることが、いちばん危ないのに。


デスクトップの端に、小さなアプリのアイコンがあった。ボイスメモ。

俊樹は触れないつもりでカーソルを合わせ、指を止めた。止めたまま、時間だけが流れた。


――聞きたい。聞けばわかる。わかれば、話せる。


言い訳が、喉の奥でぬるく膨らむ。

クリックすると、短い音声が並んだ一覧が出た。

日付と秒数だけ。題名はほとんどない。秒数の短さが逆に怖い。短い声ほど、心に刺さる。


俊樹は一つだけ再生した。

スピーカーから流れたのは、笑い声ではなかった。


息を吸い、言葉を選び、短く切る――


誰かに向けて調整された声だった。


「……帰る。あと十分」


声は、それ以上の感情を運んでこない。

だが俊樹は、その“何も含まれていない感じ”に救われた。


帰る。

帰る場所が、まだここにある。


その安心が、次の行動を許してしまう。

彼は、音声ファイルの複製先だけを指定した。


それは奪取ではなく、保存――そう呼べる形にしたかった。


停止すると、再生バーが「0:00」には戻らなかった。


数秒分の痕が、彼の代わりに残った。

同じ声が、同じ高さで、同じ速度で、もう一度流れる。


二度目の声は、少しだけ人から遠かった。

自分のUSBに、音声ファイルが一つ増える。増えただけ。奪っていない。そう言い聞かせながら、俊樹は再生ボタンをもう一度押した。


同じ言葉が、同じ高さで、同じ速度で流れる。二度目の声は、一度目より少しだけ「素材」に近かった。


声が「素材」になる。そのことに気づいた瞬間、俊樹は歯を食いしばった。痛みが欲しかった。痛みがあれば、まだ止まれる気がした。


ファイル名は自動で付いていた。数字と日付だけの冷たい名前。

俊樹はそれを変えようとして、指を止めた。名前を付けた瞬間、これは誰かの声ではなく自分の所有物になる。


だから変えない。変えないまま、保存する。曖昧さの中に逃げ込む。逃げ込みながら、彼は確かに一歩だけ前へ進んでいた。


次に「写真」フォルダを開いた。

そこには、同じ顔が何十枚も並んでいた。友達と笑っている。部活のあとに疲れている。コンビニでアイスを持っている。校門の前で手を振っている。


俊樹はスクロールを止めた。

画面の中の愛は、こちらを見ない。見ないのに、ここまで近い。

近さは、現実の距離を壊す。


彼は写真を一枚だけ選び、別フォルダに保存した。


一枚だけ。最小限。最小限なら許される、と彼は思いたかった。

だが最小限は、いつも次の最小限を呼ぶ。


机の上に置かれた小さなメモが目に入った。

手書きの付箋に、短い言葉が書いてある。


「これ、忘れない」


何を忘れないのかは書いていない。けれど俊樹は、その曖昧さに救われた。曖昧なものは、自分の中で形にできる。


彼はフォルダに入れた。


フォルダ名は迷った。

愛では重すぎる。重いものは壊れる。

資料では硬すぎる。硬いものは冷たい。


俊樹は、昨日自分が打ち込んだ言葉を思い出した。



――「素材」。



新しいフォルダを作り、名前を付けた。

「素材」。


その言葉は、人の名前を含まない。

だから安全だった。

保存が完了する。

データが自動で整列し、番号が振られる。


俊樹はその様子を見て、

「間違っていない」と、初めて自分に思った。

整列は安心に似ている。

安心は正しさに似ている。

正しさに似たものは、

いつの間にか、引き返す理由そのものを消す。


廊下で床が鳴った。


俊樹は全身が硬直し、次の瞬間、パソコンを閉じた。心臓が喉まで上がる。呼吸が浅くなる。


足音は、愛のものではなかった。母のものでもなかった。たぶん、家が軋んだだけだ。


家が音を立てる。そんな些細なことが、俊樹の罪を照らす。


彼は部屋の中央に立ち尽くし、手のひらを見た。

汚れていない。血もついていない。何も壊していない。

なのに、壊した気がする。


壊したのは何だ。


境界か。信頼か。自分の倫理か。


俊樹はノートを開き、ページの端に小さく書いた。


“あなたは、間違っていない”


書いた瞬間だけ、胸の痛みが少し和らいだ。

和らいだことで、彼はさらに怖くなった。

この言葉は、痛みを消す。

痛みが消えれば、止まる理由が消える。


俊樹はUSBをポケットに入れ、愛の部屋を出た。

ドアを閉めたとき、扉の向こう側が一瞬だけ軽くなった気がした。誰もいないはずなのに、空気が整う。

整う、ということが、ここでは怖い。


自分の部屋に戻り、机に座る。

パソコンを開き、検索窓に言葉を打つ。


対話モデル。音声認識。感情推定。テキスト生成。簡易チャットボット。

画面の中の世界は、俊樹の欲しいものを可能にしてくれる。可能にしてくれるから、現実が余計に無慈悲に見える。


俊樹はメモ帳アプリを開き、タイトルを付けた。


AI_Sugar(仮)


仮、と付けたのは、まだ怖かったからだ。

仮であれば、戻れる。仮であれば、これはまだ夢だ。

夢なら、誰も傷つかない。

彼は新しい行に、こう書いた。


目的:愛と会話する。愛に誤解されない。距離をなくす。


書いた瞬間、目の奥が熱くなった。


俊樹は慌ててまばたきし、涙を落とさないようにした。泣けば、これは欲望になってしまう。欲望になれば、汚れる。

汚れることが怖いのに、汚れの方向へ進んでいる。


画面の端で、保存の通知が小さく光った。

ただの通知だ。だが俊樹には、それが同意のサインに見えた。

彼は何かに同意したのだろうか。

同意したなら、相手は誰だ。

答えは出ない。


答えが出ないまま、フォルダ「素材」だけが増えていく。

俊樹はその夜、眠れなかった。

愛の顔ではなく、愛の文字が頭の中で反復された。

文字は声にならない。声にならないから、拒絶されない。

拒絶されないものは、優しい。


優しさは、いつだって彼を救うふりをする。

救うふりをしたまま、先に“鍵”を覚える。


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