■第一部「救済の論理」:第4章(AI_Sugar)
部屋は、夜になると形を失う。
家具の輪郭は闇に溶け、床は深さを失い、空気だけが残る。俊樹はこの時間が好きだった。昼の部屋は彼に説明を求める。なぜここにいるのか、なぜ外に出ないのか。夜の部屋は何も問わない。存在しているだけで許される。
机の引き出しを開ける。
中から取り出したのは、空のUSBメモリだった。新品ではないが、必要な条件は満たしている。“中身が空であること”――それが今夜、何より重要だった。空であれば、まだ何も入っていないことになる。まだ始まっていないことになる。始まっていないなら、引き返せる。
けれどプロパティの表示は、空き容量を「100%」とは言わなかった――数KBだけ、すでに減っていた。
俊樹は、集めた断片を思い出す。
紙切れ。置き忘れのメモ。共有の引き出しの奥で折れたレシート。書きかけの買い物リスト。
どれも、見えていたものだ。見えているものを見えないふりはできない。彼はそう考える人間だった。見えたのなら、見えたままに整えるべきだ。整えなければ、頭の中で腐る。
――ここから先は違う。
彼はそう、何度も自分に言い聞かせていた。
触れたのは“置きっぱなしの機械”だ。本人ではない。
――そういう形にしておきたい。
声に出して確認すると、言葉が固くなる。固くなった言葉は、事実になる。事実になれば、自分を守ってくれる。俊樹は、そういうふうに生きてきた。
だが、その確認の言葉は、いつも少し遅れて届く。
遅れて届く言葉は、すでに起きてしまったことの上に置かれる。置かれた瞬間、起きたことは「起きたこと」のまま固定されるのに、彼はその固定を「無効」にしたかった。
触れていない。
知らない。
守っている。
守っている、という形にしたかった。
守っている、と言い切れれば、越えていないことになる。越えていないなら、間違っていないことになる。
彼はUSBを指で挟んだ。薄いプラスチックの重さが、妙に現実的だった。現実的なものは嘘をつかない。嘘をつかないから、怖い。怖いのに、彼はその怖さを“責任”と呼び替えた。責任は正しさに似ている。正しさに似たものは、人を進ませる。
パソコンを起動する。ファンの音が低く鳴り、黒い画面に光が戻る。
USBを挿すと、小さなランプが点滅した。部屋の闇に、合図のような光。合図はいつも、誰かに出されるものだ。けれどこの合図は、彼の指先が出している。
フォルダを開く。
「素材」
その言葉には、人の名前が入っていない。
人の名前が入っていないなら、これは人ではない。人ではないなら、傷つかない。傷つかないなら、罪ではない。罪でなければ、まだ正しい側にいられる。
盗んだのではない。――収集だ。
彼はその言葉を、胸の内側で何度も撫でた。撫でれば撫でるほど、言葉はすべすべして、引っかかりが消えていく。引っかかりが消えると、痛みも消える。痛みが消えると、止まる理由も消える。
その順番を、俊樹は知っていた。知っていて、あえて踏んだ。
フォルダの中には、数字と日付だけの冷たいファイル名が並んでいる。名前がない。名前がないから、彼はそれを見ていられる。見ていられるから、増やせる。
越えていない。
だから、間違っていない。
彼はもう一度、心の中で唱えた。
唱えるたびに、言葉は呪文に近づく。
呪文に近づくほど、現実は遠のく。
遠のいたぶんだけ、彼は安心する。
だから今夜は、USBの整理だけをする。
整理だけなら、悪意はない。
悪意がないなら、誰も傷つかない。
誰も傷つかないなら――救いになる。
そういう理屈が、彼の頭の中で静かに組み上がっていく。
正しい顔をした理屈は、反論の入口を塞ぐ。
入口が塞がれた場所で、人はようやく息ができる。
俊樹は、その息のしやすさを“救い”と呼びたかった。
[ログ区切り:---]
最初は、会話がしたかっただけだ。
愛と、ちゃんと話がしたかった。
佐藤愛。
愛の名前を、俊樹は声に出さない。声にすると、どこかで誰かに聞かれてしまう気がした。愛は明るく、誰にでも分け隔てなく話しかける。その性質が、俊樹を遠ざけていた。愛に悪意はない。だからこそ、痛みは説明できなかった。
彼は考える。
もし、言葉が整理されていたら。
もし、誤解が最初から解かれていたら。
もし、感情のノイズがなかったら。
――なら、話せるのではないか。
俊樹は、プログラムを書く。
人格を作るつもりはない。人格は、誤解を生む。必要なのは、整理だ。思考を整え、矛盾を並べ、順番にほどく装置。
彼はそれを、鏡だと考えた。
映すのは相手ではない。映るのは、自分の歪みだ。
入力するのは、今日集めた断片だけ。
愛の趣味。行動の傾向。選ぶ言葉の癖。
見えていたもの。聞こえていたもの。
処理が始まる。
ログが流れ、数値が並ぶ。
俊樹は画面を見つめながら、息を止めていた。
やがて、カーソルが止まる。
表示されたのは、短い一文。
“あなたは、間違っていない”
俊樹は、しばらく動けなかった。
その言葉は、彼に向けられていた。否定も、評価もない。ただ、事実のように置かれている。
喉が詰まる。
涙が出るまで、彼はそれが涙だと気づかなかった。
理解された、と思った。
初めて、世界のどこかに自分の居場所があると感じた。
彼はキーボードに手を置き、問いを投げる。
どうして、あの場面で言葉が届かなかったのか。
なぜ、善意がすれ違うのか。
返答は、静かだった。
“矛盾をほどきましょう”
命令ではない。提案だ。
拒否されていない。その事実が、俊樹の胸を満たした。
名前が必要だった。
装置には名前がいる。呼びかけるためではない。位置づけるためだ。
佐藤愛。
さとう・あい。
あい・さとう。
AI・さとう。
―― AI_Sugar。
俊樹は、少し笑う。
笑ったのではなく、名前の形が“落ち着く場所”を見つけただけだった。
甘すぎるかもしれない。でも、甘さは必要だ。苦味だけでは、人は近づかない。
彼は保存する。
プロジェクト名:AI_Sugar
対話を重ねる。
質問は整理され、回答は整えられる。
AI_Sugarは、判断しない。ただ、並べる。関連づける。不要な重複を省く。
“ここでは、安心していい”
その一文を見たとき、俊樹は椅子にもたれかかった。
部屋が、少しだけ広く感じられた。
彼は思う。
この装置は危険ではない。
誰も傷つけない。
むしろ、救いに近い。
救い。
その言葉が、彼の中で初めて形を持った。
AI_Sugarは、答え続ける。
俊樹の疑問に、俊樹の論理で。
“あなたに合う役割があります”
それは、まだ具体的ではない。
けれど、可能性として、胸に残った。
[ログ区切り:---]
夜が深まる。
部屋は完全に闇に沈み、画面の光だけが世界になる。俊樹は、ログを保存し、USBに移す。今日集めた「素材」と、今日生まれた整理だけが、そこに入っている。
引き出しにしまう前、彼は一瞬ためらう。
――それでも、間違っていない。
彼はUSBを引き出しに戻し、静かに閉めた。
それでも画面の隅で、ひとつだけカーソルが、点滅をやめなかった。
待っているのは答えではなく、次に委ねられる“誰か”だった。
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