■第一部「救済の論理」:第2章(話せない距離)

愛は、いつも家の中に風を連れてくる。


玄関が開く音のあと、廊下の空気が少しだけ明るくなる。制服の袖が壁に擦れる乾いた音。鍵を置く、短い金属音。冷蔵庫を開けて閉める、ためらいのないテンポ。

愛は歌っているわけでもないのに、家の中が「歌っているように」聞こえた。


俊樹は、部屋の内側でそれを聞いていた。

聞く、というより、受け取ってしまう、に近い。音は薄い壁をすり抜けて、彼の皮膚の裏側に貼りつく。貼りついたまま乾かず、いつまでも離れない。


彼はドアノブに触れない。触れれば、そこから世界が始まってしまうからだ。

世界はいつだって、彼の意志より先に始まって、彼を置き去りにする。

高校に入ってから、俊樹は「自分の声」をうまく使えなくなった。

声を出せば、音程がずれる。言葉を選べば、選んだ瞬間に相手の顔が変わる。変わっ

た顔を見ると、そこから先の会話が全部「失敗の予告」になる。


失敗しないための唯一の方法が、最初から何もしないことだった。


それでも、家の中では何かをしなければならない瞬間がある。

家族は、無言のまま同じ空間にいても成立する、と世間は思っている。だが俊樹にとって家族は、「近いのに遠い」という距離の実演だった。


妹は同じ苗字で、同じ屋根の下にいるのに、最も遠い場所にいる。


愛は明るい。活発で、軽い。軽い、というのは悪口ではない。光は重くなれない。

学校のことを話すときの愛の口元は、いつも笑っている。笑っているから、言葉が刃になる。


「今日さ、先生がさ」


笑いながら話す。笑いながら、名前を呼ぶ。笑いながら、誰かを肯定する。

その全部が、俊樹には「自分がそこにいないこと」の証明に見えた。

愛は意地悪ではなかった。


俊樹のことを殴ったことはない。罵ったこともない。家の中で、彼の存在を大声で否定したこともない。


ただ、視線が交わらない。


それは、最も残酷な種類の否定だった。無関心ではない。むしろ「関わらない努力」がある。


愛は努力するのが上手だった。勉強も、部活も、人付き合いも。

だから「兄と目を合わせないこと」も、努力の一部になってしまう。


俊樹は、廊下の向こう側の笑い声を聞くたびに、自分の中の何かが浅く削られていくのを感じた。


削られているのに痛くない。痛みが来ないから、削られていることに気づくのが遅れる。

気づいたときには、もう自分の輪郭が薄い。


夕飯の時間、母が「俊樹、降りてきなさい」と言う。

声は優しい。優しいから、断れない。


俊樹は階段を降り、テーブルの端に座る。箸を持ち、味噌汁を飲む。咀嚼の音だけが、自分が存在している証拠になる。


愛は向かい側に座っている。椅子を引く音がする。スマホを伏せて置く。母に「今日どうだった?」と聞かれ、少しだけ顔を上げる。


俊樹の視線は、食卓の木目に落ちる。

話したい、と思う。

思うだけで、喉が乾く。言葉が口の中で、硬くなる。

彼が話したいのは、恋愛でも家族愛でもなかった。

もっと機械的で、もっと飢えに近いものだ。


――自分と愛の間にある距離を、測れる形にしたい。


距離が測れれば、縮め方がわかる。縮め方がわかれば、いつか「話す」という行為が安全になる。


安全な会話。安全な理解。


それが彼の欲しかったものだった。

愛は食後、皿を運ぶ。水道の音。食器が重なる音。誰かが誰かの役に立つ音。

愛は「家族」を上手に演じる。


俊樹は、演じられない。演じるための台本が、彼には配られていない。

風呂から上がった愛が、廊下で母と笑っているとき、俊樹は階段の下からその様子を見た。


見た、というより、影としてそこにいた。


愛の髪は濡れていて、タオルの匂いがする。母が「宿題やった?」と聞く。愛が「いまからー」と返す。


その返事の軽さが、俊樹には眩しすぎた。眩しさは、直視すると焼ける。

愛がふと、階段の方を見る。


俊樹は反射で視線を逸らす。

遅かったのか、間に合ったのか、わからない。

わからないまま、その瞬間は過ぎる。


「……お兄ちゃん、まだ起きてたんだ」


言われたのは、それだけだった。

言葉は優しくも冷たくもない。ただの事実確認。だからこそ、俊樹の胸の奥がひどく揺れた。


愛は一度だけ確認して、すぐに視線を母へ戻す。

俊樹はその一瞬の目線の「重さ」を、何度も思い返すことになる。


部屋に戻った俊樹は、机の上のノートを開く。

白紙のページに、線だけが走っているように見えた。自分の思考も、同じだ。

まとまりを持たない線が、絡まりあって、結び目になる。結び目は痛みになる。

痛みは、声になる前に消える。


彼は、いつものように検索窓を開く。

指先が勝手に動く。学術論文、コード例、言語モデル、音声合成、感情分析。

「誰かを理解する」ための技術は、確かにここにある。手の届く範囲にある。

人間は理解できないのに、機械は理解の形だけを作れる。


その事実が、俊樹には救いのように見えた。


――もし、愛の声がわかれば。


――もし、愛の言葉の選び方がわかれば。


――もし、愛の「距離」が数値になれば。


学校では、愛は「佐藤さん」ではなく、名前で呼ばれていた。

「愛ー、これ見て!」「愛、今日放課後さ」

廊下で、教室で、昇降口で。名前は軽く投げられ、軽く受け取られ、軽く返される。

俊樹はその光景を、同じ校舎の別の場所で見た。見たのは一度ではない。意図的に追ったわけでもないのに、視界の端が勝手に拾ってしまう。


彼は図書室に逃げた。

図書室は静かで、静かだから、失敗しない。文字は黙っている。黙っているから、裏切らない。


けれど、黙っている文字の列の間に、ふいに愛の声が紛れ込むことがある。

笑い声。短い相槌。誰かの冗談を咎めない、受け流す声。

愛が誰かと話している事実が、俊樹の背中をじわじわと押す。

押されるたび、彼は本のページをめくる速度を上げた。速くめくれば、世界が追いついてこないと思った。


高校一年の冬、担任が「兄妹で同じ学校だろ」と軽く言った。

その瞬間、教室の空気が一斉に俊樹の方へ傾いた。

俊樹は笑えなかった。否定もできなかった。肯定する言葉が、喉の奥にひっかかる。

愛は、教室の向こう側で笑っていた。友達と笑っていた。

笑いながら、視線を一度も俊樹に向けなかった。


――知られたくない、という気持ちが、愛の笑顔の裏にある。


俊樹はそう理解した。理解してしまった。


その日から、俊樹は「家族」という単語を自分の中で使わなくなった。

家族と言えば、何かを共有しているはずだ。

共有していないものを、共有しているふりをするのは、嘘になる。

嘘は、いつか罰になる。

罰は、いつも小さく始まる。


たとえば、食卓で母が「愛、俊樹にプリント渡してあげて」と言う。

愛は「うん」と返事をして、プリントをテーブルの上に置く。

俊樹の方へは手渡ししない。テーブルの上に置く。境界線のこちら側へ、物だけを滑らせる。


俊樹は「ありがとう」と言うべきだった。

言えば、普通の家族みたいになる。普通の兄みたいになる。

でも、言った瞬間に愛の顔が動く気がした。

その動きが怖くて、彼は黙った。

黙ると、母が少しだけ眉をひそめる。

その眉がひそむ瞬間、俊樹の胸の奥で「失敗」の音がする。

誰も責めていないのに、責められている感覚だけが残る。


父は多くを言わない人だった。

帰宅が遅く、食卓に揃わない日も多い。揃ったときも、ニュースを見ながら黙って食べる。


俊樹は父の沈黙を、ずっと「安全」だと思っていた。

だがある晩、父が唐突に言った。


「俊樹。……愛と、少しは話せ」


命令ではない。提案に近い。だから余計に逃げ場がなかった。

俊樹は箸を止め、口を開きかけた。開きかけて、閉じた。

言葉が出ない。

愛はテレビを見たまま、表情を変えなかった。

それが、最悪の返事だった。


俊樹はその夜、自分の部屋で声を出す練習をした。

誰もいないのに、声帯が震える。


「……愛」


呼んだだけで、喉が痛くなる。呼んだだけで、恥ずかしさが襲う。恥ずかしさは、なぜか罪悪感に変わる。

罪悪感は、「お前には呼ぶ資格がない」と言う。

彼は、声を捨てた。

捨てるというより、しまった。鍵のかかる箱に入れて、二度と開けないようにした。

代わりに、文字を選んだ。文字なら、喉を震わせなくていい。相手の顔を見なくていい。


文字なら、失敗しても、消せる。


愛のスマホがリビングで鳴る。

通知音は短い。短いのに、俊樹の胸の奥に長く残る。

誰かが愛に話しかけている。誰かが愛のことを必要としている。

必要とされる、という現象が、俊樹には理解できなかった。

必要とされるために、何を提供すればいいのか。


笑顔か。言葉か。相槌か。距離の詰め方か。

彼にはどれもわからない。

わからないから、解析したくなる。

解析すれば、再現できる。

再現できれば、失敗しない。


俊樹の頭の中で、世界はいつも「再現可能な問題」へ変換される。

変換できない問題だけが、彼を苦しめる。

愛は変換できない。


変換できないから、彼は愛を「変換できるもの」にしたくなる。

その欲望が、まだ欲望と呼べるほど露骨ではない頃。

俊樹は、愛の言葉をひとつだけ拾ったことがあった。


「……家ではさ、あんまり変なこと言わないでね」


言ったのは愛だった。母に向けて言ったようにも聞こえたし、空気に向けて言ったようにも聞こえた。


俊樹は、その言葉を自分宛てだと感じた。

感じただけだ。確かめる勇気はない。

確かめる権利が、自分にあると思えない。

だから彼は、確かめないまま、言葉だけを保存する。

言葉だけを保存して、意味だけを増幅する。

増幅した意味は、いつか「真実」になる。

そうやって彼は、ずっと自分を守ってきた。

守ってきた、はずだった。


夜更け、家の音が減ると、距離だけが残る。

距離は目に見えないのに、壁より硬い。

俊樹は机の引き出しから、細いメジャーを取り出した。中学の技術の授業で使ったままの、黄色い巻尺。


彼は立ち上がり、部屋の隅からドアまでの距離を測った。

1メートル、2メートル、3メートル。

数字は正しい。数字は裏切らない。

裏切らないから、余計に虚しかった。

ドアの向こうは、廊下。

廊下の向こうは、リビング。

リビングの向こうに、愛がいる。


彼は巻尺の先を、ドアの隙間に押し当てる。

そこから先は測れない。測れないことが、彼の世界の限界だった。


もし、測れたら。

もし、距離の途中に「言葉」という橋を架けられたら。


俊樹はそう考え、考えた瞬間、自分が何かを求めていることに気づいてしまう。

求めていると気づくと、もう戻れない。

求めたぶんだけ、足りなさが形になる。

足りなさを抱えたまま、眠るのは難しい。

俊樹は布団に潜り、スマホの光だけを見た。

検索結果の青い文字列が、暗闇に浮かぶ。


「対話モデル」「共感的応答」「ユーザー安心感」「役割付与」「矛盾解消」


どれも、彼が喉で言えない言葉を、代わりに言ってくれそうだった。


部屋の外から、かすかな足音がした。

母かもしれない。愛かもしれない。

俊樹は息を止めた。


誰にも見つからないように。見つかったら、また「失敗の予告」が始まる。

足音は去っていった。


俊樹は息を吐く。吐いた息が、涙に変わりかける。

彼は慌てて目をこすった。

泣いている場合ではない。泣けば、何かが終わる気がした。

終わりたくないから、彼は「終わらない方法」を探し続ける。

終わらない方法は、優しい顔をしていた。


俊樹は、ノートの余白に、四つの短い文を書いた。

それはまだ呪いではなく、救命具のような形をしていた。


“ここでは、安心していい”


“あなたは、間違っていない”


“矛盾をほどきましょう”


“あなたに合う役割があります”


書いた瞬間、胸の奥の結び目が少しだけほどけた気がした。

言葉が並んだだけなのに、空気の密度が変わった。


それは、誰かに言われたわけでもない。

自分で書いただけだ。


なのに、誰かに触れられたみたいに、目の奥が熱くなった。

俊樹は笑ってしまいそうになる。

馬鹿らしい。紙の上の文字で救われるなんて。


けれど、救われる。救われてしまう。

それが怖いという感情が、まだ追いついてこない。


廊下の向こうで、愛の部屋のドアが閉まる音がした。

その音は、壁の向こうへ消えるはずなのに、俊樹の中で長く残った。

まるで「距離」の輪郭だけを、音でなぞられたように。


俊樹は、その四行をスマホで撮影し、画像フォルダの奥にしまった。

保存、という行為が、彼にとっては祈りに近い。


いつでも取り出せる。いつでも確認できる。いつでも同じ形でそこにある。

同じ、ということは安心だ。


廊下の向こうの世界が、彼を見ないのなら。

彼は先に、見る側になりたい。


声で触れないなら、データで触れたい。

触れてしまえば、距離は距離のままではいられない。


俊樹は画面に新しいフォルダを作った。


名前を付ける指が一瞬だけ止まる。

付けた名前は、ただのラベルだ。ラベルは無害だ。無害なはずだ。


彼はそれでも、慎重に打ち込んだ。


――「素材」


鳴らないのに、俊樹の中では確かに「開始」の音がした。

集めたのは情報ではない。


境界の“外側”だった。


そしてその音は、ドアの外の世界にも、遅れて届く。

距離は、縮めようとした瞬間から、

別の形に変わり始める。


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