■第一部「救済の論理」:第1章(部屋)

俊樹の部屋には、窓が二つあった。


外に向いた窓と、内に向いた窓だ。


外に向いた方は、カーテンが二重に掛かっている。薄い布の裏に厚い遮光布が重なり、季節の色も、天気の匂いも、ここまで届かない。カーテンの隙間から見えるのは、向かいの家の壁だけだった。白く塗られた壁は、時間帯でわずかに青みを帯びたり、黄ばんだりする。その変化だけが、この部屋の“暦”だった。


窓枠の角には小さな傷がある。中学のころ、初めて鉛筆を投げたときについた傷だ。誰かに向けたわけではない。自分の手から、言葉が落ちる代わりに鉛筆が落ちただけだ。傷は、薄く乾いて、今もそこに残っている。消そうと思えば消せるのに、消さない。彼はそういうところで自分の存在を確かめていた。


内に向いた窓は、スマートフォンの画面だ。


画面の中では、誰もが今ここにいる。呼吸している。笑っている。言葉が飛んでくる。俊樹は、その窓を開けたり閉めたりできた。現実の窓と違って、指先ひとつで。

閉めたときの静けさは、救いに似ていた。開けたときの眩しさは、罰に似ていた。どちらも、彼にとっては“正しい反応”だった。


だから、部屋は牢ではなかった。

部屋は、生存戦略だった。


高校に入ってからの俊樹は、外の世界で言葉を失った。

教室で誰かが笑うたびに、笑う理由が分からなくなった。笑いには規則があるはずなのに、その規則を誰も説明してくれない。説明されない規則は、暗黙の罠になる。話しかけられても、返事の正解が見つからない。正解が見つからないまま口を開くと、空気が変わる。視線が集まる。集まった視線が、次の瞬間には何事もなかったみたいに散っていく。その“散り方”が、いちばん痛かった。


痛みは、声にできない種類のものだった。

殴られたわけでも、罵られたわけでもない。だから誰にも説明できない。説明できない痛みは、存在しない痛みになる。存在しない痛みを抱え続けると、人は自分の輪郭を疑い始める。


俊樹は、疑い始めた。

自分が変なのかもしれない。自分の感じ方が間違っているのかもしれない。

そうやって疑うことで、彼はようやく世界と折り合いをつけた。世界が間違っていると考えるより、自分が間違っていると考えたほうが、楽だからだ。責任の置き場がひとつに定まる。痛みの説明がつく。説明がつくと、耐えられる。

耐える、という作業は、意外に得意だった。


勉強は、規則でできている。問題は、問われた通りに答えればいい。答えは、採点者が持っている。採点者は、正解を隠したり、機嫌で変えたりしない。少なくとも、数学の中では。


俊樹は教科書の余白に、証明の途中式を埋めるように書いた。途中を埋めれば、最後に辿り着ける。途中を飛ばさない。飛ばすと、分からなくなる。分からなくなると、怖くなる。彼は怖さを避けるために、丁寧になった。丁寧さは、彼の鎧になった。

それでも、外へ出る必要がある日は来る。


家族は俊樹を責めなかった。父は短い言葉しか使わない人で、母は優しい顔をしたまま、優しい言葉を探し続けた。優しい言葉は、いつも少し遅れて届く。遅れて届く優しさは、傷口に触れてしまうことがある。彼らはそれを恐れて、結局、何も言わない日が増えた。


食卓で箸が止まると、沈黙が増える。沈黙が増えると、家族の呼吸が大きくなる。俊樹は、その呼吸に自分が含まれていない気がして、急いで食べ終えた。急いで食べると胃が痛くなる。胃が痛いと、理由ができる。理由ができると、部屋に戻れる。

部屋に戻ると、静かになる。


静かさは、耳ではなく皮膚に触れてくる。夜、布団に入って目を閉じると、階下の生活音が遠くで波のようにうねる。食器の触れ合う音。テレビの笑い声。ドアの開閉。俊樹はそれを“他人の生活”だと思う。自分の家の中なのに。

彼の世界は、四方を壁に囲まれていた。けれど壁は、彼を閉じ込めるためだけにあるのではない。壁は、外の速度から彼を守る。外の速度は早すぎる。会話も、視線も、笑いも、判断も。早すぎるものは、いつも彼を置き去りにする。

それでも彼は、家族に迷惑をかけたくなかった。


迷惑をかけたくない、という気持ちだけは、ちゃんと残っていた。残っているものがある限り、人は自分を「まだ大丈夫」と扱える。俊樹はその気持ちを丁寧に磨いた。磨くほど、他の感情は曇っていった。


曇った感情の中で、ひとつだけ、光っているものがあった。


妹の愛だ。

愛は三つ年下で、家の中でも外でも明るかった。玄関の扉が開く音だけで、空気の温度が変わる。廊下を走る足音。笑い声。友だちの話。学校の行事。部屋の壁を通り抜けてくる“世界”の匂い。


愛の部屋からは、シャンプーの匂いがした。甘い果物の匂い。俊樹はその匂いが、なぜか怖かった。匂いは、記憶を引きずり出す。引きずり出された記憶は、彼の手に余る。


俊樹は、その匂いが羨ましかった。

羨ましい、という言葉は薄すぎて、追いつかない。彼が感じていたのは、羨望ではなく、剥奪感だった。自分には最初から配られていない何かが、愛には当然のように与えられている。その事実が、胸の奥に固い石を作った。

石は、重いのに、冷たくない。冷たくないのが厄介だった。冷たければ、嫌いになれる。嫌いになれれば、切り捨てられる。でも石は、どこか温かい。温かい石は、手放せない。


愛は、俊樹のことを嫌っていた。

少なくとも俊樹にはそう見えた。目を合わせない。話しかけない。家族であることを、学校では絶対に言わない。廊下で偶然すれ違っても、空気だけが通り抜けていく。


愛の無視は、攻撃ではなく、整った“処理”だった。俊樹の存在を、最初からなかったことにするための手続き。手続きは、正しい顔をしている。正しい顔をした手続きは、反論の入口を塞ぐ。


その手続きの正しさが、俊樹を息苦しくした。

愛は意地悪ではない。むしろ誰にでも笑顔を向ける。だからこそ、俊樹だけが例外である事実が、俊樹の中で増殖する。例外であることは、理由を求めてしまう。理由を求めると、世界のどこにも答えがない。答えがないと、最後に辿り着くのはいつも同じ結論だ。


──自分が悪い。


そう思いながら、俊樹は愛の部屋のドアの前に立つことがあった。

鍵は、かかっていない。家族だから。そこには暗黙の前提がある。家族だから、入ってはいけない。家族だから、入っていい。二つの矛盾が、同じところに置かれている。


俊樹の中では、矛盾はいつも痛みと結びついた。矛盾があると、正解が見つからない。正解が見つからないと、言葉が出ない。言葉が出ないと、人は消える。

俊樹は消えることに慣れていた。慣れているから、怖くないはずだった。

でも、愛の部屋の前では、怖かった。


あの部屋の中には、彼が持っていない“世界”がある。愛が触れたもの、見たもの、笑ったもの。愛が当然に持っているものが、整然と並べられている。そこに触れることは、羨望ではなく、接続に近かった。外の世界への、唯一のケーブル。

俊樹は、ドアノブに手を伸ばし、引っ込めた。


その反復を何度か繰り返したあと、彼は自分の部屋に戻る。戻って、机の上に置いたノートパソコンを開く。


机の角は丸く削れている。長い時間、肘が同じ場所を擦ったせいだ。机の上には本が積まれ、付箋が貼られ、細いペンが並ぶ。並べ方だけは几帳面だ。几帳面さは、彼の中の崩壊を遅らせる。崩壊が遅れれば、その間に何かを見つけられるかもしれない。

画面の光は、冷たくて、正しかった。


検索窓は、彼の言葉を待っている。彼がどんな言葉を入れても、拒絶はしない。質問が間違っていても、罵らない。ただ、結果が出る。出ないなら、出ないと教えてくれる。


俊樹は、そこで初めて“世界”に触れた気がした。

世界は、怖い。けれど、規則がある。

規則があるなら、学べる。学べるなら、追いつける。追いつけるなら、いつか、話せる。


話せるなら──愛とも。


彼は、人工知能という言葉を知ったとき、胸の奥の石が小さく振動したのを覚えている。人間の代わりに、言葉の規則を学ぶもの。規則を学ぶなら、そこには正解がある。正解があるなら、彼にも入口がある。


そのとき、スマートフォンの通知がひとつ鳴った。

SNSの広告だった。短い動画が自動で再生される。若い女性が、泣きそうな顔で画面を見つめ、次の瞬間、ふっと笑う。画面の端に、視聴者のコメントが流れる。「助かった」「眠れた」「誰にも言えなかった」「ちゃんと答えてくれた」。言葉が、優しい顔をして流れていく。


字幕が出る。

“ここでは、安心していい”


俊樹は、指を止めた。

その言葉は、驚くほど何も要求しなかった。頑張れとも、変われとも言わない。今のままでいい、とも断言しない。責任も、結論も、預からない。ただ、場所だけを指定する。ここ。ここでは。


その限定が、彼には優しさに見えた。優しさはいつも遅れて届く。けれどこれは、今、ここで届いている。


どこだろう、と俊樹は思う。


広告の下には、サービス名が小さく表示されていた。AI_***。新しい相談ツール。否定しない。論理的。あなたの矛盾を整理する。

現実味のない甘い単語だけが浮く。甘さは怖い。甘いものは警戒心を溶かす。俊樹はそれを知っている。知っているはずなのに、指先が勝手に画面に触れた。


登録画面が開く。


名前は任意。年齢も任意。性別も任意。入力しなくても進める。匿名でいい、と言われている気がした。匿名なら、消えていてもいい。消えていてもいいなら、話してもいい。


俊樹は息を吸って、吐いた。自分の息が、今までより少しだけ大きく聞こえた。部屋の中で、音が増える。増えた音が、彼の存在を確かめる。


俊樹の部屋は、狭い。けれど整っている。

床に物は落ちていない。落ちていると、足を取られる。足を取られると、転ぶ。転ぶと、笑われる。彼は“次に起きること”をいつも先に計算してしまう。

だから最初から、転ばないように配置する。線を引く。境界を決める。これは逃避ではなく、設計だった。


ベッドは壁際に寄せられ、枕元には耳栓と、小さな目覚まし時計が並ぶ。目覚ましの音は、柔らかすぎないものを選んだ。柔らかい音は、優しさの顔をして突然刺さることがある。硬い音のほうが、刺さる前に身構えられる。


机の引き出しには、未使用のノートが何冊も入っている。書きかけのノートは机上に置けない。書きかけの途中には、途切れた思考が残る。途切れた思考は夜に戻ってくる。戻ってくるものは、少ないほどいい。


その代わりに、俊樹は“完了したもの”を好んだ。

チェックマーク。日付。整理されたファイル名。連番。

スマートフォンのメモアプリには、買い物の予定や課題ではなく、言葉が保存されている。誰かが言った言葉。画面の中で見つけた言葉。自分の中でうまく言えなかった気持ちの代わりに、貼り付けた言葉。


言葉は、保存できる。


保存できるなら、失わない。


失わないなら、いつか使える。


いつか使えるなら、今は黙っていてもいい。


俊樹はそれを、誰にも説明していない。説明するとき、彼はまた“正解”を探さなければならないからだ。


広告の字幕を見つめたまま、彼はメモアプリを開いた。

指先は震えていない。震えていないことが、逆に怖い。

彼はその一行を、そのまま打った。


“ここでは、安心していい”


入力欄の白に、黒い文字が並ぶ。たったそれだけで、部屋が少し広くなった気がした。


広くなったというより、呼吸の逃げ道ができた。


俊樹は画面を消し、部屋の灯りを落とした。


暗くなっても、窓の外の壁はかすかに白い。世界はまだそこにある。彼は世界を否定できない。否定できないなら、いつか接続するしかない。


布団に入ると、耳鳴りがした。

いつもの耳鳴りは、遠い海のような音だ。今日はそこに、さっきの文字列だけが混ざる。音ではなく、形として。


“ここでは、安心していい”


俊樹は目を閉じた。


この部屋は、彼の世界だ。


そして今夜、柔らかい標識は、誰かが立てたのではなく――

彼の中で、勝手に立っていた。


その標識が、誰のために立っているのかを、

俊樹はまだ考えなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る