第2話 冷徹なる執行者
1
ボロ長屋の空気が、一瞬にして凍りついた。
戸口に立つ男、九条厳刻(くじょう げんこく)が放つ霊圧は、鋭利な刃物そのものだった。彼が纏う漆黒の官衣は、光を吸い込み、周囲の色彩を殺している。
「……九条、くん。久しぶりだね」
晴臣は、震える膝を隠すようにして立ち上がった。
厳刻は晴臣の挨拶を無視し、部屋の隅で不機嫌そうに尻尾(実体は見えないが、霊的には顕現している)を揺らす白夜に、氷のように冷たい視線を向けた。
「安倍晴臣。かつて安倍の家名を汚し、寮を追われた者が、いまだにこのような『害獣』を飼い慣らしているとは。帝都の治安を何だと思っている」
「白夜は害獣じゃない。彼は僕の大切な……」
「黙れ」
厳刻の言葉と共に、彼の腰に巻かれた鋼の鎖がジャラリと鳴った。
「貴様の主観など聞いていない。事実は一つだ。昨夜、帝都北方の商家において、高位の妖による霊力掠奪事件が発生した。現場には、銀色の狐火の残滓が確認されている」
白夜が、低く喉を鳴らして立ち上がった。
「……ほう。その貧相な眼(まなこ)は、我を犯人と決めつけたか。面白い。その首、ここで胴から切り離してやろうか」
白夜の周囲に銀の粒子が渦巻く。一触即発の事態。
晴臣は慌てて二人の間に割って入った。
「待って! 白夜は昨夜、僕と一緒にいたんだ。お花ちゃんの家で怪異を解決してた。証人もいる!」
「野良陰陽師と、その飼い妖。そして口裏を合わせられる町娘。……法的に、それらは証拠にはなり得ない。九条家の法においては、『疑わしきは即座に封印』が鉄則だ」
厳刻の手が、懐の呪符へ伸びる。
「安倍晴臣。貴様も同罪として連行する。寮の審問官の前で、その言い訳を並べるがいい」
2
晴臣と白夜が連行されたのは、帝都の中枢に鎮座する巨大な要塞——陰陽寮だった。
かつて晴臣が学び、そして「無能」として放逐された場所。
石造りの廊下は冷たく、至る所に強力な結界の呪符が貼られている。白夜は終始、不快そうに顔を歪めていた。
「おい晴臣。今すぐこの建物を瓦礫に変えてやってもいいのだぞ」
「ダメだってば……。ここで暴れたら、本当に犯人にされちゃうよ」
二人は、窓一つない石牢のような取調室に押し込められた。
厳刻は机を挟んで向かいに座り、一枚の書状を広げる。
「昨夜の被害者は、帝都でも有数の絹問屋、越後屋の隠居だ。命に別状はないが、長年培ってきた霊力のすべてを奪われ、今は廃人のようになっている。現場で見つかったのは、この燃え滓だ」
厳刻が取り出したのは、透き通るような銀色の結晶。それは紛れもなく、白夜の『銀華』に酷似した霊力の波動を放っていた。
「……これは」
晴臣は息を呑んだ。確かに白夜の霊力に似ている。だが、何かが違う。
晴臣は指先を伸ばし、その結晶に触れようとした。
「触るな。貴様の汚れた霊力で証拠を汚染させるつもりか」
「……違うんだ。九条くん、この霊力、泣いてる。……奪われたんじゃない。これは、『無理やり引き剥がされた』叫びだよ」
厳刻の眉が不快げにぴくりと動いた。
「またそれか。妖に感情がある、物に心がある……。貴様のその妄想が、寮の規律を乱すと何度言えば理解する。力とは現象であり、妖とは災害だ。そこに『声』など存在しない」
厳刻は立ち上がり、冷酷に告げた。
「明日の日の出と共に、この妖の処刑——正式な再封印の儀を執り行う。安倍晴臣、貴様はそれを見届けた後、帝都から永久追放だ。二度と敷居を跨ぐことは許さん」
3
厳刻が去り、重い鉄の扉が閉まった。
静寂の中で、白夜が鼻で笑った。
「……聞いたか、晴臣。あの小僧、我を処刑すると言ったぞ。笑止。我の力を完全に封じられる人間など、この世に一人としておらぬというのに」
「……白夜、怒ってる?」
「当たり前だ。あのような無粋な男の鎖に繋がれていること自体が、我の誇りに対する侮辱だ。……だが、それ以上に……」
白夜は黄金の瞳を細め、晴臣を見た。
「貴様のあの顔が気に入らん。なぜ、あのような男の言葉に傷ついている」
「……九条くんは、間違ってないんだよ。彼は、帝都の人々を本気で守ろうとしてる。ただ、守り方が僕と違うだけなんだ」
晴臣は膝を抱え、冷たい壁に背を預けた。
「でも、あの結晶……あれは白夜の力じゃない。誰かが白夜の力に似せて作った、偽物の光だ。……このままじゃ、白夜が消されちゃう。それだけは、絶対に嫌だ」
晴臣の瞳に、静かな決意の灯が宿る。
彼は懐をまさぐった。連行される際、厳刻は見逃したようだが、晴臣の靴の裏には一枚の小さな符が隠されていた。
「白夜。……脱走するよ。一晩だけでいい、僕に時間をちょうだい。真犯人を捕まえて、君の無実を証明する」
「……ふん。面白い。我を処刑場から逃がしたとなれば、貴様こそ極刑だぞ?」
「いいよ。白夜がいなくなるよりは、ずっとマシだ」
晴臣は指先にわずかな霊力を込め、符を起動させた。
『萌黄符:息吹の加護』。
本来は植物を育てるための術だが、彼はそれを石壁の「わずかな隙間に生える苔」に作用させた。苔が爆発的に成長し、石の結合を内側から押し広げていく。
「……行くよ」
4
闇夜に紛れ、二人は陰陽寮を抜け出した。
晴臣が向かったのは、被害のあった絹問屋・越後屋だった。
現場はすでに厳刻の配下たちによって封鎖されていたが、晴臣には「道」が見えていた。妖や霊力の流れが、夜の空気の中に糸のように漂っている。
「……あっちだ。霊力の『淀み』が残ってる」
たどり着いたのは、越後屋の裏手にある古びた蔵だった。
そこには、厳刻たちが見落とした、微かな、しかし決定的な違和感があった。
「白夜、あそこ。……壁に、変な呪札が貼ってある」
それは、陰陽寮が使う正規の符ではなかった。
どす黒い墨で書かれた、歪な紋様。それは対象の霊力を無理やり吸い上げ、別の場所へ転送するための『略奪の門』だった。
「これは……寮の禁忌術じゃないか。誰かが、妖の力を模倣して、人間の霊力を集めてるんだ」
その時、蔵の影から、カサリと音がした。
現れたのは、第一章で倒したはずの怪異に似た、しかし遥かに巨大で禍々しい「何か」だった。
それは複数の妖が縫い合わされたような姿をしており、その中心には、白夜の銀色を真似た、どす黒い偽の炎が揺らめいている。
「グ……ガガ……霊力……モット……ヨコセ……」
「人造の式神……!? 人間の霊力を喰らわせて、人工的に大妖を作ろうとしているのか……?」
晴臣は戦慄した。これは単なる事故ではない。陰陽寮の内部に、これほどまでの非道を計画している者がいる。
「……白夜! あの偽物の炎、消せる?」
「我を誰だと思っている。あのような紛い物、視界に入るだけで不愉快だ」
白夜が前に出ようとした、その時。
「——そこまでだ、脱獄囚」
背後から、冷徹な声が響いた。
九条厳刻。彼は、晴臣たちがここへ来ることを予見していたかのように、冷たく得物を構えて立っていた。
「九条くん! 違うんだ、これを見て! 寮の中に裏切り者がいる!」
「黙れと言ったはずだ。現場を荒らし、証拠を捏造し、あまつさえ妖を解き放つとは。……安倍晴臣、貴様はもはや、私の友人ですらなくなった」
厳刻の指が印を結ぶ。
「『律令の杭(りつりょうのくい)』——執行!」
頭上から、霊力で作られた巨大な鋼の杭が、晴臣と白夜目掛けて降り注いだ。
5
空気を引き裂くような音と共に、霊力で編まれた鋼の杭が降り注ぐ。
それは逃げ場を奪う「檻」であり、不浄を穿つ「断罪」の矢だった。
「白夜、危ない!」
晴臣は叫び、咄嗟に懐から『瑠璃符:水鏡』を二枚、扇状に投げた。
「水よ、鏡となれ。その刃を逸らせ!」
瑠璃色の光が空中で円を描き、水の膜のような盾を展開する。杭は膜に触れた瞬間、わずかに軌道を逸らして地面へと突き刺さった。石畳が爆ぜ、土煙が舞う。
「……ふん、小癪な真似を」
厳刻は眉一つ動かさず、印を組み替える。
「杭は一本ではない。わが法に逃げ場なし。——連撃、執行」
地面に突き刺さった杭が共鳴し、鎖となって晴臣たちの足を絡め取ろうと伸びてくる。
だが、その攻撃が二人を捉える直前、背後の蔵が内側から爆発した。
「ギ……アアアアアア!」
人造式神が、その歪な巨体を揺らして躍り出た。
厳刻の放った杭の霊圧に反応し、さらなる「餌」を求めて暴走を始めたのだ。複数の妖の四肢が繋ぎ合わされたその背中から、どす黒い粘液が噴き出し、周囲の木々を腐らせていく。
「なっ……なんだ、その醜悪な姿は……!」
厳刻の瞳に、初めて驚愕の色が走った。
陰陽寮の記録にある、どの妖の分類にも当てはまらない。それは、禁忌を犯して「造られた」地獄の写し絵だった。
「九条くん、気をつけて! そいつは霊力を直接吸い取る! 術をぶつけすぎると、逆に力を与えちゃうんだ!」
「貴様に指図される覚えはない! 妖など、等しく無に帰せば済むことだ!」
厳刻は厳格な規律を重んじるあまり、目の前の「異常」を排除すべき対象としてしか見ていなかった。彼は最強の攻撃術式、『断罪の円環』を展開しようとする。
だが、式神の中心で揺らめく「偽の銀火」が、厳刻の霊力を磁石のように吸い寄せ始めた。
「……っ!? 霊力が……制御できない……!?」
「アアア……ヨコセ……ソノ純粋ナ……力ヲ……!」
式神の触手が、厳刻の喉元へ迫る。
厳刻は自らの強力すぎる霊力が仇となり、身動きを封じられていた。
6
「白夜、今だよ! 力を貸して!」
晴臣の声に、白夜は不敵な笑みを浮かべた。
「言われずとも。あの紛い物、我の目の前で銀の火を騙った罰を、その存在ごと刻み込んでやる」
白夜が指先を天にかざす。
「ひれ伏せ。真の月光を知らぬ、泥の犬ども。——『銀華・灰燼』」
音はなかった。
ただ、一瞬だけ、夜の闇が真っ白に塗り潰された。
銀色の蓮の花が、式神の足元から無数に咲き誇る。
それは、熱も衝撃も伴わない。ただ、触れたものの「存在理由」を奪い、微細な塵へと還元していく静かなる破壊。
式神の悲鳴すらも、銀の光の中に消えていく。
だが、式神の核——数多の妖の魂が絶望で縫い合わされた中心部は、あまりに深い「負の念」によって、消滅を拒んでいた。
「……まだだ、まだ消えない! あの子たち、苦しくて、助けてって言ってる……!」
晴臣は、消えゆく銀光の中に飛び込んだ。
「晴臣、戻れ! 貴様まで塵になるぞ!」
白夜の静止も聞かず、晴臣は式神の残骸、その中心にある「黒い泥」に手を触れた。
「……っ……あああ……!」
瞬間、数千、数万の妖たちの悲鳴が、晴臣の神経を逆流する。
暗い水底に沈められ、名前を奪われ、ただの兵器として組み替えられた痛み。
晴臣の鼻から血が滴り、瞳が真っ赤に染まる。
「……大丈夫。……もう、自由にしてあげるから……」
彼は自分の命を削り、その「泥」を浄化しようと試みた。
『帰真・招霊の儀(簡易版)』。
本来なら大掛かりな祭壇が必要な高位術を、彼は自分の肉体を依り代にして強行したのだ。
「……『名前』を、思い出して。……君たちは、風だった。君たちは、山を駆ける獣だった。……ただの、力じゃないんだ」
晴臣から発せられる淡い色彩の光が、どす黒い泥を包み込む。
泥の中から、小さな、光の蝶たちが次々と飛び立っていった。一つ、また一つ。
それは、兵器へと変えられていた妖たちが、本来の霊子の姿へと還っていく光景だった。
やがて、最後の一匹が夜空へ消えたとき、晴臣はその場に糸が切れたように倒れ込んだ。
7
静寂が戻った。
蔵の跡地には、折れた杭と、焼けた土の匂いだけが漂っている。
厳刻は、呆然と立ち尽くしていた。
自分が「排除」しようとしたものを、晴臣は「救済」した。
それも、自らの命を、使い物にならなくなるほど削り取って。
「……なぜだ、安倍晴臣」
厳刻が、絞り出すような声で問うた。
「なぜ、そこまでする。妖を救って、貴様に何の得がある。……これは、規律に反する。法を無視した、ただの自己満足だ」
白夜が、倒れた晴臣を抱き起こし、厳刻を射抜くような目で見据えた。
「……得だと? そんな下らぬ基準で動く男なら、我はとっくにこいつを喰い殺している」
白夜の全身から、先ほどとは違う、静かな殺気が漏れる。
「九条の小僧。貴様の『法』とやらは、泣いている者の声も聞こえぬほど、耳を塞ぐものなのか?」
厳刻は、言い返せなかった。
彼の手元に残ったのは、式神が消えた後に残った、寮の長老格が使う特殊な「刻印」が打たれた呪符の破片だった。
これこそが、内部に裏切り者がいる証拠。
晴臣の言ったことが正しかったことを、この破片が証明していた。
「……今夜は、これまでとする」
厳刻は、破片を固く握りしめた。
「安倍晴臣。……貴様の身柄は、一時的に『監視下での逃亡』として扱う。私の独断だ」
「……九条、くん……」
意識を朦朧とさせながら、晴臣が小さく呟く。
「勘違いするな。貴様のやり方を認めたわけではない。……ただ、この『汚物』を放置したまま、貴様を裁くのは九条家の正義に反する。……寮内の膿は、私が、私の法で裁く」
厳刻は背を向けた。
「……次に見えたときは、手加減はせん。それまでに、せいぜいその細い命を繋いでおくがいい」
漆黒の官衣が、夜の闇に消えていく。
その背中は、最初に出会った時よりも、どこか重い荷を背負っているように見えた。
8
翌朝。
ボロ長屋に戻った晴臣は、昼過ぎまで泥のように眠り続けた。
目が覚めると、枕元には不機嫌そうな顔の白夜と、一通の手紙があった。
差出人は不明。だが、その紙質は陰陽寮で使われる高級なものだった。
「……なんて書いてあるの?」
「『昨夜の調査報告は受理された。白夜の容疑は保留とする』だとさ。あの堅物小僧め、回りくどい真似を」
白夜はふん、と鼻を鳴らし、昨日お花からもらった焼き芋の最後の一切れを、口に放り込んだ。
「だが晴臣。……あの小僧も言っていたが、貴様の霊力はもう限界だ。これ以上、あの無茶な浄化を続ければ、次は本当に魂が弾け飛ぶぞ」
「……わかってる。でも、白夜が守ってくれるでしょ?」
「断る。我は死んだ肉は喰わぬ主義だ」
言いながらも、白夜は晴臣の冷えた手に、自分の温かい手をそっと重ねた。
妖と人間。
破壊と対話。
二人の奇妙な関係は、帝都を揺るがす巨大な陰謀の渦へと、さらに深く巻き込まれていくことになる。
長屋の外では、また新しい一日が始まっていた。
だが、その日の青空の裏側で、晴臣は確かに感じていた。
もっと深く、もっと冷たい、「悪意の根源」が、自分たちをじっと見つめていることを。
次の更新予定
あやかし憑きの落ちこぼれ〜訳あり陰陽師は帝都の夜を掃除する〜 Y. @y-sipitu_love
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