あやかし憑きの落ちこぼれ〜訳あり陰陽師は帝都の夜を掃除する〜
Y.
第1話 狐と芋と、迷子の想い
1
帝都・華平安(かへいあん)の朝は、墨色から薄群青(うすぐんじょう)へのゆるやかな移ろいとともに始まる。
大路を歩けば、牛車の車輪が軋む音や、早起きの行商人が声を張り上げる活気が聞こえてくるはずだが、ここ『羅生門(らしょうもん)』に近い場末の長屋には、湿り気を帯びた静寂が居座っていた。
「……ふう。やっぱり、少し湿気てるな」
安倍晴臣(あべの はるおみ)は、煤けた台所で小さく息をついた。
二十歳を少し越えたばかりの彼の肌は、貴族のそれのように白いが、その手は書写の内職でついた墨汚れと、炊事による赤みが混じっている。着古した浅葱色の狩衣(かりぎぬ)は、何度も繕った跡があった。
彼は土竃(どっかべ)の火を絶やさないよう、慎重に火吹き竹を扱う。
今日の朝食は、昨日お隣の隠居からお裾分けしてもらった、わずかな米とたっぷりの粟(あわ)を混ぜた粥。それに、少しばかりの塩と、保存しておいた漬物だ。
鍋からふつふつと、控えめながらも柔らかな米の香りが立ち上り始めた、その時だった。
「……おい。また、その貧相な匂いで我を叩き起こすか」
背後から、低く、鈴の音のように透き通った声がした。
振り返らなくてもわかる。そこには、この世のものとは思えないほど美しい「異物」が立っている。
「おはよう、白夜(びゃくや)。今日は機嫌がいいね、いつもより起きるのが早い」
「機嫌など良いものか。貴様の霊力が空腹で細りすぎて、我が霧散しそうになっただけだ」
薄暗い長屋の部屋に、銀色の髪が月光を掬い取ったかのように輝く。
白夜。かつて帝都を未曾有の恐怖に陥れたとされる伝説の白狐——その化身である彼は、今はただの傲慢な居候として、晴臣のボロ長屋に居着いていた。
白い狩衣をだらしなく着崩し、切れ長の瞳を眠たげに細めたその姿は、この世の誰よりも優雅で、そして毒を含んでいる。
「はいはい。今、お粥ができるから。白夜の分は、昨日もらった卵を入れてあげるよ」
「卵だと? 我を揶揄っているのか。本来なら、供物として極上の牛一頭、あるいは清らかな巫女の心臓でも捧げられるべき格なのだぞ」
「あはは、そんなの台所に置けないよ。ほら、座って」
晴臣が木椀に粥を盛り、差し出す。
白夜はふん、と鼻を鳴らして座り込むと、毒づきながらも箸を取った。そして一口食べると、ふっと眉間の皺を緩める。
この男——安倍晴臣の作る飯には、妙な魔力がある。単に味が良いというだけでなく、凍えきった魂を内側からじわりと解かすような、厄介な温かさがあるのだ。
「……ふん。相変わらず、情けないほど優しい味だな。術が上達せぬわけだ」
「それは褒め言葉として受け取っておくよ」
晴臣は苦笑いしながら、自分の分の粥を口に運んだ。
彼は名門・安倍家の血を引いていながら、陰陽寮を追放された「落ちこぼれ」だ。理由は単純。妖を「滅ぼす」ことができなかったから。
彼には聞こえてしまうのだ。悪さを働く妖の奥底にある、寂しさや、痛みや、空腹の叫びが。
食卓を囲む二人。
最強の破壊神と、心優しき落ちこぼれ陰陽師。
そんな奇妙な日常を破ったのは、長屋の薄い板戸を叩く、遠慮がちな音だった。
「あの……安倍さま。いらっしゃいますか……?」
震える声。晴臣は箸を置いた。
2
訪ねてきたのは、近所に住む『お花』という十代半ばの少女だった。
彼女は結びの緩んだ手ぬぐいを握りしめ、青ざめた顔で長屋の敷居をまたいだ。部屋の隅で、白夜が黄金の瞳をギラつかせて彼女を眺めている(お花には、白夜が絶世の美青年には見えていても、その正体が妖であることは伏せられている)ため、彼女は余計に萎縮している。
「どうしたんだい、お花ちゃん。そんなに震えて」
「……おじいちゃんの、部屋が……」
お花が語るには、一週間前に亡くなった祖父の部屋から、夜な夜な異音がするという。
カサカサ、カサカサ。
何かが這い回るような音。かと思えば、何を探しているのか、畳を引っ掻くような鋭い音。
お花の両親は「ネズミだろう」と相手にしないが、お花には聞こえるのだという。その音と一緒に、誰かがすすり泣くような、冷たい風が吹くのを。
「おじいちゃん、死んじゃったから、寂しくて化けて出たんでしょうか。私、怖くて……」
「亡くなったおじいさんが、孫を怖がらせるようなことをするかな」
晴臣は優しく語りかけ、彼女の前に白湯を置いた。
白夜が横から口を挟む。
「決まっているだろう。未練を残して死んだ死者の念が、そこらの餓鬼と混ざり合って醜い怪異になったのだ。晴臣、そんな退屈な案件、放っておけ。腹の足しにもならん」
「白夜、黙ってて。……お花ちゃん。わかった、今夜、様子を見に行ってみるよ」
お花は、ぱあっと顔を明るくした。
「本当ですか!? でも、私……お礼に差し上げられるようなお金なんて……」
「いいよ。お花ちゃんが昨日焼いてた、あの美味しそうな焼き芋。あれを二つ、報酬にしてくれるかな?」
お花は目を丸くし、それから何度も頭を下げて帰っていった。
彼女が去った後、白夜は心底呆れたように大きなため息をついた。
「焼き芋二つだと? 貴様、いつか本気で餓死するぞ。我を巻き込むなと言ったはずだ」
「いいじゃないか。お花ちゃんの焼き芋、甘くて美味しいんだよ」
「ふん。我は知らんぞ。もしそれが本物の怨霊だった場合、我は助けん。貴様が喰われるのを横で見物してやる」
そう言いながらも、白夜はすでに出かける準備を始めた晴臣の背中を、じっと見つめていた。その瞳の奥には、退屈を紛らわすための狩りを楽しむような、残酷な光が宿っている。
3
夜。帝都を深い闇が包み込む。
お花の家は、長屋から数丁離れた場所に建つ、質素ながらも手入れの行き届いた古い家屋だった。
晴臣と白夜は、お花に導かれて、亡くなった祖父の書斎へと案内された。
部屋に入った瞬間、晴臣の肌がチリリと痺れた。
(……これは、ただのネズミじゃないな)
空気が淀んでいる。まるで、深い井戸の底に潜り込んだような湿り気。
白夜は壁に寄りかかり、鼻を鳴らした。
「ちっ、下等な匂いだ。湿気たカビと、古臭い紙の臭い……。おい晴臣、とっとと焼き払え。我の鼻が曲がる」
「待って。まだ『正体』がわからないんだから」
晴臣は懐から、一枚の呪符を取り出した。
それは鮮やかな『瑠璃色』の和紙で作られた、彼特製の呪符だ。
「謹請。水鏡(みずかがみ)に写るは、真(まこと)の姿——」
晴臣が呪符を宙に放ると、符は水に溶けるように青い光を放ち、部屋の空気を波立たせた。
すると、部屋の隅に、黒いもやのようなものが輪郭を見せ始めた。
それは、巨大な蜘蛛のようでもあり、人間のようでもある、歪な形をしていた。
黒い影は、部屋の片隅にある古い『文箱(ふみばこ)』の周りを、必死に、狂ったように掻きむしっている。
「カサ、カサッ……ナイ、ナイ、ドコ……」
掠れた声が聞こえる。
白夜が冷笑を浮かべ、指先を向けた。指先には、凍てつくような銀の狐火が灯る。
「探し物なら、あの世でするがいい。塵になれば、何も探す必要はなくなるぞ」
「白夜、やめて!」
晴臣が白夜の手を制した。
黒い影——怪異は、晴臣たちの存在に気づき、敵意を剥き出しにして膨れ上がる。
「ジャマ……スルナ……! ワタシ……サガサナキャ……アノ子ニ……!」
怪異が跳ねた。鋭い爪のようなものが晴臣の喉元に迫る。
お花が悲鳴を上げる。
白夜が「やれやれ」と肩をすくめ、力を解放しようとしたその時、晴臣は動かなかった。
彼は、目を閉じた。
そして、印を結ぶのではなく、ただ静かに、その手を怪異の「黒いもや」の中へと差し出したのだ。
「うっ……!」
晴臣の顔が苦痛に歪む。
怪異の冷たい悪意が、腕を伝って彼の魂を削りに来る。普通なら霊力を防壁にするが、晴臣は逆に、自分の霊力を「門」として開放した。
「視せて。君が何を、そんなに必死に探しているのか」
『視凝(しぎょう)の術』。
晴臣の瞳が、淡い金色に染まった。
4
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
晴臣の脳裏に、彼自身のものではない記憶が、濁流となって流れ込んでくる。
それは、煤けた行灯の火の下で、震える手で文を書く老人の背中だった。
老人の名は、お花の祖父・源蔵。彼は病床にあり、自分の命がもう幾ばくもないことを悟っていた。
源蔵には心残りがあった。最愛の孫娘、お花が近々迎えるはずの成人を祝う儀。そのために、若かりし頃から少しずつ金を貯め、あつらえておいた「特別な贈り物」があったのだ。
『……お花、すまない。これだけは、お前に直接渡したかった……』
源蔵は、贈り物を取り出し、文箱の底に隠した。だが、その直後に激しい発作が彼を襲った。
贈り物の場所を誰にも告げられぬまま、彼は息を引き取った。
残されたのは、強い未練。
「渡さなければ」「あの子を笑顔にしなければ」という純粋な想いが、死後の霊気と混ざり合い、正体不明の怪異へと変質してしまったのだ。
「……っ、うああああ!」
晴臣の喉から、押し殺した悲鳴が漏れる。
怪異が抱える「焦燥」と「悲しみ」が、針のように晴臣の心臓を刺す。それは肉体的な痛みよりも遥かに鋭く、魂を摩耗させるものだった。
「晴臣! いい加減にしろ、その手を離せ!」
白夜の声が、遠くで聞こえる。
白夜は苛立ちを露わにし、地面を蹴った。彼の周囲に、銀色の粒子が舞い上がる。
「その下等な念に喰われて死ぬつもりか。貴様が死ねば、我の飯はどうなる!」
白夜の手が、晴臣の肩を掴んで引き剥がそうとする。だが、晴臣の指先は、黒いもやの核心——源蔵の想いが固まった一点を、決して離さなかった。
「……大丈夫だよ、源蔵さん。……もう、大丈夫」
晴臣は、血の気の引いた唇で、優しく微笑んだ。
彼は懐から、『朱鷺符(ときふ):温もりの灯』を取り出した。
その符は、敵を焼くためのものではない。凍えた魂を解きほぐし、帰るべき場所へ導くための、柔らかな「灯火」だ。
「……あなたの想いは、僕が。……お花ちゃんに、必ず」
晴臣が霊力を込めた瞬間、朱鷺色の光が爆発した。
それは春の陽光のような、どこか懐かしい暖かさだった。
黒いもやは、その光に触れると、見る間に形を変えていく。禍々しい蜘蛛のような姿が解け、白髪の老人の、穏やかな輪郭へと戻っていった。
『……ああ……』
老人の影は、晴臣に向かって深く、深く頭を下げた。
そして、満足げな溜息を一つ残し、光の粒となって、夜の闇に吸い込まれていった。
静寂が戻った。
部屋には、お花の震える呼吸音と、床にへたり込んだ晴臣の荒い息遣いだけが残っていた。
「……おじいちゃん……?」
お花が恐る恐る近寄る。
晴臣は、震える手で、黒ずんだ文箱の底板を叩いた。そこには二重底の仕掛けがあった。
カチリ、と音がして、隠されていた小さな包みが現れる。
中から出てきたのは、見事な翡翠をあしらった、銀の「かんざし」だった。
「お花ちゃん。おじいさん、これを君に渡したくて、ずっとここで待ってたんだよ」
お花は、差し出されたかんざしを両手で受け取った。
翡翠の冷たい感触が、なぜか温かく感じられた。彼女の目から、大粒の涙が溢れ出し、畳を濡らした。
「おじいちゃん……ごめんね、怖がったりして……ありがとう、ありがとう……!」
少女の泣き声が、静かな夜の部屋に響き渡る。
晴臣はそれを見届け、ようやく安堵の吐息をついた。だが、その直後、視界が急激に暗転した。
「……あ……」
膝から崩れ落ちる晴臣の体を、銀色の袖が支えた。
「……救いようのない馬鹿だ、貴様は。たかが人間一人の未練に、全霊力を注ぎ込むなど」
白夜の冷たい、けれどどこか苦い声が降ってくる。
白夜は晴臣を抱き抱えるように支えながら、お花を一瞥した。
「おい、娘。報酬の芋は、明日の朝までに長屋へ届けろ。一つでも欠けていたら、この家を丸ごと銀華の露にするからな」
お花は涙を拭い、必死に頷いた。
白夜は鼻を鳴らすと、気絶した晴臣を軽々と担ぎ上げ、夜の窓から闇へと消えていった。
5
翌朝。
長屋の板戸の前に、湯気を立てるほど出来立ての「焼き芋」が二つ、丁寧に包まれて置かれていた。
晴臣が目を覚ましたのは、日が中天に差し掛かる頃だった。
全身を重い倦怠感が襲っているが、昨夜のような刺すような痛みはない。
「……あ、白夜……起きてたの」
枕元には、すでに皮を剥かれた黄金色の焼き芋が、皿に乗せられていた。
白夜は、窓際で優雅に毛繕いをする猫のようなポーズで、自分も芋を頬張っていた。
「……甘すぎる。反吐が出るほどだ」
「あはは……でも、食べてるじゃない」
「捨てるのが忍びなかっただけだ。……おい晴臣。次に同じ真似をしてみろ。今度こそ、我は貴様を喰い殺す」
白夜の言葉は鋭いが、その黄金の瞳に殺意はない。
晴臣は「わかってるよ」と笑い、ゆっくりと体を起こした。
自分の命を削り、妖を救う。それは、陰陽師としては間違った道なのかもしれない。
だが、窓から差し込む陽光と、隣にいる最強の相棒、そして甘い芋の香りが、彼に「これでいいのだ」と思わせてくれた。
しかし。
そんな穏やかな時間を、冷たい「鉄」の響きが切り裂いた。
長屋の外から、整然とした足音が近づいてくる。
それは町人の草履の音ではない。硬い革靴が、規律正しく地面を叩く音。
ピシャリ、と。
部屋の空気が、氷のように冷え切った。
「——この不浄な霊気。やはり、ここにいたか」
戸が開け放たれる。
そこに立っていたのは、漆黒の官衣に身を包んだ、一人の青年だった。
腰には、妖を縛り上げるための鋼の鎖が巻かれ、その瞳には一切の情けが宿っていない。
「……九条、厳刻(げんこく)」
晴臣の顔から、笑みが消えた。
白夜が、喉の奥で「グルル」と低い獣の声を漏らす。
「安倍晴臣。並びに、そこにいる野良狐。……貴殿らを、帝都秩序攪乱の容疑で、陰陽寮へ連行する」
厳刻の背後で、数人の陰陽師たちが呪符を構える。
晴臣の、本当の戦いが始まろうとしていた。
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