Protocol 7 : 解剖されない死

 嵐が過ぎ去った後の静寂は、かえって不気味だった。俊作は、追っ手を撒くために乗り捨てたレンタカーを離れ、父がかつて「何かあったらここへ行け」と冗談めかして語っていた、古い知人が住職を務める山寺の離れに身を寄せていた。

 薄暗い行灯の光の下、俊作は日誌ファイルのNo7を開く。そこには、これまでの華やかな著名人や権力者たちの名とは対照的な、ごく平凡な老人の名が記されていた。


【二〇二四年 一月十五日:検体番号 24-B-012】

検体名、「佐藤 喜一(さとう きいち)」。

享年八十二。身寄りのない独居老人で、最期は郊外の介護施設『静風園』の自室で、眠るように息を引き取ったとされている。

本来、こうした「施設内での看取り」として処理される死が、大学病院の解剖台に上ることは稀だ。だが、この時は違った。研修医が死亡確認の際、あまりに「綺麗すぎる死に顔」に違和感を覚え、遺族の承諾(といっても遠戚の甥のみだったが)を得て、病理解剖に回されたのだ。


【外部所見】

死後硬直、死斑の出現状況に異常なし。

全身に褥瘡(床ずれ)もなく、介護状況は極めて良好であったことが推察される。

頸部、四肢に外傷なし。穏やかな表情。

施設側の記録では「夜間巡回時には変化なし。明け方の検温時に呼吸停止を確認」とある。


 父・宗一の筆致は、この回に限って、妙に静謐で、それでいて深い絶望を湛えているように見えた。


【内部所見】

胸腔を左右に開き、心臓を露出させる。

肥大も、弁の狭窄もない。八十二歳という年齢を考えれば、驚くほど若々しい心臓だ。

しかし、左心室後壁のわずかな一点――直径二ミリにも満たない範囲に、不自然な『虚血の斑(むら)』がある。

冠動脈を遡っても、そこへ至る血管に閉塞は見当たらない。

顕微鏡下でその組織を観察する。

……見間違えるはずがない。

 二十年前、女優の美月真理の頸部にあったあの溢血点。

 十年前、ジャーナリストの河田の心筋を焼き切ったあの高周波反応。

 そして、五年前の巨大企業の経営幹部、江口の肺を埋め尽くしていたあのエアロゾルの残滓。

 それらと同じ「作為的な痕跡」が、この名もなき老人の心臓にも刻まれている。

 俊作は日誌ファイルのページをクリックする手が震えるのを止められなかった。

 なぜ、こんなごく普通の老人が殺されなければならないのか。彼は国家の秘密を握っていたわけでも、巨大な利権を脅かしていたわけでもないはずだ。


【考察】

 佐藤氏は、何ら社会的な脅威ではなかった。

 だが、彼は『施設側の都合』にとって、あるいは『医療費削減というマクロな数字』にとって、不要な存在と見なされたのではないか。

 施設内での死。看取り。

 医師が死亡診断書に『心不全』と一言書き込めば、それですべてが終わる。

 警察は動かない。遺族も疑わない。近隣住民も「大往生だ」と手を合わせる。

 私は、これまでの暗殺が『特別な人間』に対する『特別な処置』だと思い込もうとしていた。

 そう自分に言い聞かせることで、自分をシステムの協力者ではなく、避けることのできない嵐の観測者だと思い込もうとしていたのだ。

 だが、それは間違いだった。


『心不全は、この国で最も安全な死因だ』


 殺す側にとってこれほど安全な武器はない。

 理由のいらない死。反論を許さない病名。

 権力者は不都合な政敵を消すためにこれを使い、組織は目障りな内部告発者を消すためにこれを使い、そして今や、このシステムは『効率化』という名の下に、弱き者、声なき者を間引くための道具へと堕した。

 今、私の目の前にあるのは、一人の老人の死体ではない。

 無数の『心不全』という嘘で塗り固められた、この国の巨大な腐敗の縮図そのものだ。

 日誌の余白には、血を吐くような殴り書きがあった。


『解剖されない死が、この国には溢れている。私はその門番として、二十年間、嘘の通行許可証を発行し続けてきたのだ』


「親父……」


 俊作は、暗い室内で青白く発光するノートパソコンの画面を見つめた。

 その液晶の光は、父が遺したあまりにも残酷な真実を、俊作の顔に冷ややかに映し出していた。

 父が、自分を責め続けていた理由がようやくわかった。

 父を追い詰めていたのは、警察や政治家といった具体的な「敵」だけではなかったのだ。

「心不全」という便利な言葉に依存し、死因を問うことを止めてしまった社会そのもの。その巨大な「沈黙」の一部に、自分自身が組み込まれているという事実に、父は耐えられなかったのだ。

 俊作は、施設『静風園』をネットで検索した。

 驚くべきことに、その運営母体は、父が勤務していた大学病院の理事長が役員を兼任する福祉法人だった。

 そこは、臨床試験の場として、あるいは「不要な人間」を静かに処理するための終着駅として機能していたのだ。


「著名人だけじゃない。俺たちのすぐ隣で、このシステムは動いているんだ」


 俊作は、日誌の最後の一ページに挟まっていた、小さな付箋を見つけた。

 そこには、父の最期の日の、朝の時間が記されていた。


「午前六時。最後の朝食を終えた。身体が重い。今日、私は自らを解剖台に載せるための準備を終える。俊作、もしお前がこれを読んでいるなら、お前はもう『ただの傍観者』ではいられないはずだ」


 その時、寺の境内に鋭いヘッドライトの光が差し込み、静寂を切り裂いた。

 これまでの「黒いセダン」ではない。今度は、自衛隊の車両を思わせる無骨な四輪駆動車が数台、山門を強引に潜り抜けてくる。


「重要機密漏洩の容疑で、司馬俊作を拘束する! 抵抗は無意味だ!」


 俊作は日誌を胸に抱き寄せた。

 父が最後に見た景色。それは、自分一人が真実を知り、残りの世界すべてが嘘をついているという、圧倒的な絶読感だった。

 だが、俊作は以前ほど、孤独を感じてはいなかった。

 この7つの日誌ファイルに刻まれた、無念の死を遂げた者たちの鼓動が、自分の胸の奥で響いているのを感じたからだ。


「心不全なんかで、終わらせてたまるか」


 俊作は、裏の墓地へと続く竹林の暗闇の中へ、迷わず足を踏み入れた。

 次はいよいよ、最後のファイル。

 父・司馬宗一自身が、どのようにしてその生涯を閉じ、どのようにして「最後の証拠」を自らの肉体に遺したのか。その凄惨なまでの真実が、そこには待っているはずだった。

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