Protocol 8:告発しない理由

 ​竹林のざわめきが、まるで死者たちの囁きのように俊作の耳を打つ。山寺の離れを間一髪で脱出した彼は、泥にまみれながらも、父の二十番目の日誌ファイル――最後の日誌を、祈るような心地で開いた。

 ​このファイルには、これまでのような「他者の解剖」の記録だけではなく、父・司馬宗一の苦悩に満ちた内省と、彼がなぜ「告発」という直接的な手段を選べなかったのか、その残酷なまでの理由が綴られていた。

 ​時計の針は、十年前。宗一がまだ法医学教室の准教授として、その正義感を完全には磨り潰されていなかった頃の記述から始まる。


​【二〇一六年 十一月二十四日:対話の記録】

 ​女優・美月真理の変死を「心不全」として処理させられた直後のことだ。宗一は、自身の恩師であり、当時の法医学教室の主任教授であった室田の部屋を訪ねていた。


​【記録】

 私は、室田教授の前に美月真理の解剖所見のコピーを叩きつけた。


「教授、これは明らかに窒息の徴候です。心不全で片付けるのは医学への背信行為です。今すぐ警察に再考を促すべきです」


 ​室田は、眼鏡の奥の老いた瞳で私をじっと見つめ、溜息をついた。


「司馬君。君は医学を信じているようだが、この社会を動かしているのは『医学』ではない。……『空気』だよ」


​「……空気?」


​「そうだ。彼女が心不全で死んだという事実は、もうこの国の隅々まで浸透してしまった。警察、スポンサー、官邸、そして何より彼女のファンという大衆が、その答えを求めている。今さら君が『他殺だ』と叫んで、誰が幸せになるか? 捜査は混乱し、大学への助成金は止まり、君の家族は明日から平穏を失う。君の正義感は、それらすべてを破壊するほどの価値があるのかね?」


 ​宗一の筆致は、その時の屈辱を追体験するように震えている。

 ​私は食い下がった。


「真実を封じることが、医師の仕事なのですか!」


 ​室田は立ち上がり、窓の外の大学病院の巨塔を見つめながら、冷徹に言い放った。


「医師の仕事は『死因を特定すること』ではない。『社会に納得のいく死を与えること』だ。司馬君、余計なことをするな。波風を立てれば、君自身がその波に呑まれる。君が守るべきは死者の名誉ではなく、生きている教室内の一員たちの生活だ」


 ​日誌には、その後の宗一の絶望が、黒々と塗りつぶされたページと共に残されていた。


​【組織という名の暗殺者】

 ​宗一はその後、幾度となく「真実」を叫ぼうとした形跡がある。しかし、そのたびに、彼は見えない網に絡め取られていった。


​【二〇一七年 二月】

 警察庁の若手キャリアが、私の元を訪ねてきた。

 彼は笑顔で、私の息子の写真――当時、大学入学を控えていた俊作の写真を机に置いた。


『司馬先生。俊作君、優秀ですね。記者を目指しているとか。……彼が将来、良い取材ができる環境を守ってあげたいとは思いませんか?』


 ​それは、弾丸よりも鋭い脅迫だった。

 権力は、私を殺しには来ない。私の周りの人間を、静かに、確実に社会的に抹殺し、私を孤独の檻に閉じ込めようとする。

 私が声を上げれば、俊作の夢が潰される。私が真実を書けば、助手の栞たちのキャリアが奪われる。


 ​俊作は、日誌を持つ手が止まった。


 自分が記者になれたのも、これまで無事に生きてこられたのも、父がその裏で「真実」を人質に取られ、沈黙を買い続けてきたからだったのか。


​【告発しない理由】

 なぜ私は告発しないのか。

 臆病だからか? 保身のためか?

 ​答えは、そのどちらでもあり、どちらでもない。

 私は理解したのだ。この国において、一時の情熱による告発は、一瞬の打ち上げ花火のように消し去られ、その後に訪れるのは以前よりも深い暗闇だけだということを。

 ​私が今やるべきは、戦うことではない。

    『記録し続けること』だ。

​どんなに強固な組織であっても、二十年、三十年と続く一貫した『嘘の連鎖』を完全に消し去ることはできない。

 私は、鑑定書には彼らが望む嘘を書く。

 だが、この日誌にだけは、彼らが最も恐れる『科学的な事実』を、血を流すように刻みつける。

 ​私が死に、この日誌が誰かの手に渡るその日まで。

 私は、嘘のシステムの優秀な歯車を演じ続ける。

 ​孤独だ。

 解剖室で一人、遺体の声を聴き、それを公には決して明かさないという地獄。

 誰にも相談できず、同僚からも『権力に媚びる解剖医』と蔑まれ、息子からも軽蔑される。

 ​それが、私が選んだ戦い方だ。

 真実を世に放つための、長すぎる伏線だ。

 ​俊作の頬を、熱いものが伝った。

 父をずっと、冷徹な組織の人間だと思っていた。

 時代遅れの頑固者で、真実よりも権威を重んじる男だと蔑んできた。

 だが、事実は正反対だった。父は、真実を守るために、自らの誇りを、家族との絆を、そして人生そのものを犠牲にして、泥の中で這いずり回っていたのだ。


​「……ごめん、親父。何も知らなかった」


 ​日誌の後半、父の死の数ヶ月前のページには、自分の体調不良を克明に分析した記述が現れる。


​【二〇二四年 四月】

 学長たちが主催した会食の後から、不整脈が続いている。

 手口は分かっている。二〇〇六年の江口常務の時と同じ、エアロゾルによる心筋の緩やかな破壊だ。

 彼らは、用済みになった私を、私が作り上げてきた『心不全』というゴミ箱へ捨てようとしている。

 ​願ってもない幸運だ。

 ​私の遺体そのものが、最後の解剖日誌になる。

 私は、自分の心臓に、彼らが決して消し去ることのできない『特殊な重金属のマーカー』を、毎日のサプリメントに混ぜて自ら摂取し続けてきた。

 これは、特定の波長のX線でしか検出されない。

 ​私を解剖した者が、もしこの日誌を読み、私の心臓を透かせば、そこに刻まれた『他殺の証明』を見るだろう。

 ​俊作は、震える指で日誌ファイルの最後の一ページをクリックした。

 そこには、医学用語ではない、父としての、一人の男としての最後の言葉が、力強く書かれていた。


​『俊作へ。お前がこの記事を書く時、ペンは剣よりも重くなる。お前にこの重荷を背負わせることを、許してくれ。だが、これだけは覚えておいてほしい。心臓を止めることはできても、真実の鼓動を止めることは、何人にも不可能なのだ。』


 ​その時、竹林を揺らす風の音が止まった。

 サーチライトの光が、すぐそこまで迫っている。

 重いブーツが土を蹴る音。

 俊作は、日誌をしっかりと胸に抱き、立ち上がった。

 ​もはや逃げる必要はなかった。

 父がフラッシュメモリの中に遺した二十冊の記録データ。それは、この国の闇を照らし出す、消えることのない太陽だ。

 俊作は、父から受け取った「バトン」の重みを噛み締めながら、光の中へと足を踏み出した。


​「さあ、始めよう。本当の解剖を」


 ​彼の目には、もう迷いはなかった。

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