Protocol 4 : 内部告発者

 ​ログハウスの窓を叩く雨音が、次第に激しさを増していた。俊作は、湿気でわずかに波打った四冊目のファイルを開く。

 ページを捲るたびに、父・宗一が抱えていた孤独な闘いの輪郭が、より鮮明に、より鋭利に浮かび上がってくる。

 ​今回の日誌に記されていたのは、二十年前、二〇〇六年の記録だった。


​【二〇〇六年 五月十九日:検体番号 06-H-114】

​ その名は、「江口 義男(えぐち よしお)」

 日本を代表する巨大重工業メーカー「帝国重機」の常務取締役だった男だ。彼は、自社が製造する航空機部品の組織的なデータ改ざんを世間に公表するため、記者会見を翌日に控えていた。しかし、会見の前夜、彼は都内の高級ホテルの客室で「心筋梗塞による心不全」で急逝した。

 ​遺体の第一発見者はホテルの従業員。争った形跡はなく、テーブルの上には書きかけの遺書のようなメモさえ置かれていたという。警察は早々に「自殺を視野に入れた自然死」と判断したが、その検体はなぜか、父のいる法医学教室へ回されてきた。


​【外部所見】

被検体は五十八歳。体格、栄養状態ともに極めて良好。

著名な既往歴はなく、定期的な人間ドックの結果も「極めて健全」であった。

外表上の変化は驚くほど少ない。死斑の発現も正常。


 一見して、非の打ち所のない「完璧な自然死」の顔貌(がんぼう)を呈している。

 ​だが、父のメスは、その「完璧さ」に潜むわずかな亀裂を見逃さなかった。


​【内部所見】

胸腔を開き、心臓を摘出。冠動脈に閉塞は認められない。心筋の変色もなし。

所見は極めてクリーンである。あまりにクリーンすぎて、死因を特定できないという逆説に陥る。

しかし、肺を摘出し、切断面を顕微鏡下で精査した際、私の指先に微かな違和感が走った。

​肺胞の奥深く、通常は外気が入り込まない末端の組織に、ごく微細な**『非生物性の異物』**が散在している。

大きさは数ミクロン。通常の解剖で見逃されるレベルだが、特殊な染色を施すと、それは無機質な輝きを放った。


​ 俊作は、フラッシュメモリの中にある画像ファイルを開き、顕微鏡写真を凝視した。そこには、星屑のように散らばる微小な粒子が写っている。


​【考察】

 この異物は、医療用、あるいは研究用として開発されている『極微小の化学噴霧(エアロゾル)』ではないか。

 無色、無臭。これを一定濃度で吸い込めば、肺胞から直接血液に溶け込み、自律神経系を急激に攪乱させる。結果として心臓を「強制停止」させながらも、数時間で加水分解され、成分は血中から完全に消失する。

 ただし、濃度や吸入時間を誤れば、死には至らず、重篤な後遺症だけが残る。

 だからこそ、現場には高度な知識と訓練が必要だったはずだ。

 ​所轄の刑事、そして大学の理事長からは、既に『急性心筋梗塞』と記した診断書の雛形が送られてきている。

 彼らは私がこの微粒子を見つけることを想定していない。

 ​私は今日、断定を避けることにした。

 鑑定書には「急性心不全」と記す。だが、この日誌にだけは、消えない疑念を刻みつける。


『本件は、自然死とは言い切れない。この国には、空気を変えるだけで人を殺せる技術が存在する』


​「空気を変えるだけで……」


 ​俊作はファイルを閉じ、窓の外の暗闇を見つめた。

 父は断定しなかった。というよりも、断定することができなかったのだ。あまりにも高度な暗殺技術を前にして、当時の科学ではそれが「限界」だった。しかし、父は逃げなかった。証拠となる肺組織のプレパラートを、密かに隠し持っていたのだ。

 ​俊作は、かつて江口常務の秘書を務めていたという男、寺島を訪ねるべく、東京へと戻った。現在は零細の配送会社を営んでいる寺島は、健介の顔を見るなり、目に見えて動揺した。


​「江口さんの話を……? よしてくれ。あの件に関わった人間は、みんな不幸になった」

​「父が残した解剖記録があるんです。江口さんの死は、本当に心不全だったんですか?」


 ​俊作が日誌の写しを見せると、寺島は震える手でそれを手にとった。


​「……あの日、江口さんはホテルの部屋で、私と会うはずでした。でも、部屋の前まで行くと、見慣れない清掃業者の格好をした男たちが中から出てくるのが見えたんです。彼らが去った後、部屋に入ると……江口さんはもう冷たくなっていた。部屋の中は、妙に清々しい、森のような匂いがしていました」


 ​寺島は涙を堪えるように目を閉じた。


​「帝国重機は次期戦闘機の開発を請け負っている。その過程で、パイロットの生命維持システム……ではなく、**『密閉空間で特定の人間だけを無力化する技術』**に予算が流用されていた。江口さんは、自社の航空機技術が、大学病院という『実験場』で人殺しの道具に作り替えられている証拠を掴んでしまったんだ」


 ​俊作の背筋に、冷たいものが走る。


 父が勤めていた病院は、単なる隠蔽の場所ではなく、殺人に転用可能な研究が、無自覚のまま積み重ねられていた場所でもあったのか。

 ​その時、寺島の携帯電話が鳴った。画面を見た彼の顔が、一瞬で土気色に変わる。


「……奴らだ。俊作さん、逃げろ。君が持っているそのデータは、生きた人間の命より重いんだ」


 ​寺島の言葉が終わる前に、店のガラス扉が激しく叩き割られた。

 反射的に日誌を抱え、俊作は店の奥の勝手口へと飛び出す。

 雨の中、アスファルトを蹴る音が背後に迫る。

 ​父が日誌に書き残した「自然死とは言い切れない」という曖昧な言葉。

 それは、真実を完全に捉えきれなかった敗北の記録ではない。

 二十年後の息子が、その「不自然さ」の続きを暴くための、唯一の道標だった。


​「親父、俺は絶対に、この国がつけた診断名を、俺が書き換える。そしてこれを心不全で終わらせない」


 ​俊作は、闇に紛れて走り続けた。

 次の一冊には、さらなる巨大な「嘘」が待っている。



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