Protocol 3 : 溶ける凶器
逃亡生活も三日目に入ると、俊作の神経は研ぎ澄まされるのを通り越し、薄氷を踏むような危うい均衡の中にあった。
潜伏先を安宿から、かつて父と一度だけ訪れたことのある山梨県の古いログハウスへ移した。そこは父・宗一が唯一、医者としての仮面を脱いで釣りに没頭した場所だった。
暖炉の煤けた匂いが漂うリビングで、俊作は三冊目に該当するファイルを開けた。
それは今から二十年以上前、二〇〇四年の記録だった。
【二〇〇四年 八月十二日:検体番号 04-F-312】
ページをめくると、新聞の切り抜きがポロリと落ちた。
『社会派ジャーナリスト・立花勝、サウナで急死――ヒートショックによる心不全か』
当時、俊作はまだ学生だったが、立花の名前は知っていた。時の政権と大手ゼネコンの癒着を執拗に追い、権力者から蛇蝎のごとく嫌われていた男だ。八月の猛暑日、彼は都内の会員制スポーツクラブのサウナ室で、全裸のままこと切れているのが発見された。
【外部所見】
被検体は六十二歳。栄養状態良好。
発見時の体温は極めて高かったが、これはサウナ室という環境によるものか。
表皮に争った形跡、索条痕(しめられた痕)、注射痕などは一切認められない。
警察は現場状況から、急激な温度変化による心臓への過負荷――すなわち「ヒートショック」と断定。所轄の検視官は解剖の必要すら疑っていた。
だが、父・宗一の記録は、その「常識」を静かに否定していた。
【内部所見】
心筋に虚血性変化(心筋梗塞などの予兆)は認められず。
咽頭(いんとう)部から食道にかけて、粘膜が異様に収縮しているのを確認。
驚くべきは、解剖時に喉の奥、喉頭蓋(こうとうがい)付近の組織を採取し、低温下でプレパラートに載せた際に見られた現象だ。
組織の間隙(隙間)に、微細な液状の痕跡――通常の体液とは異なる「水の層」が、針の先ほどのごく小さな結晶を伴って残っていた。
俊作は文字をなぞる。父の推論は、背筋が凍るような暗殺の輪郭を描き出していた。
【考察】
立花氏は、気絶させられた後、あるいは多人数で制圧された後、喉の奥深くへ「中心を鋭利に凍らせた氷の塊」を押し込まれたのではないか。
迷走神経(脳から心臓へ繋がる神経)の末端が集まる喉への急激かつ極端な冷気刺激。医学書のどこにも確証はない。
だが、否定する論文も存在しない。
医学用語では説明できても、それは「殺し」以外の何物でもなかった。
外傷を残さず、毒物も使わない。氷はサウナの熱であっという間に溶け、死体の一部となって消える。残るのは『心不全』という名前の、完璧に洗浄された死体だけだ。
日誌の余白には、震えるような小文字で、父が現場で目撃した「不気味な光景」が記されていた。
『解剖室の扉の向こうで、公安の人間が笑っていた。彼らは科学を信じていない。だが、結果だけは完璧に利用していた。』
「氷……。そんなことが可能なのか」
俊作は立ち上がり、古いカメラバッグを探った。そこには、父が日誌と共に遺したであろう遺品がいくつか入っていた。
バッグの底、内張りの裏側に隠されるようにして一枚のネガフィルムが張り付いていた。
父は重要なものほど、決して分かりやすい場所に置かなかった。
俊作はそれを光に透かした。
写っていたのは、解剖室のトレイに載せられた、立花の喉の組織の拡大写真だ。父は、公式の記録からは削除された「証拠」を、こうして個人的な記録として焼き付けていたのだ。
俊作は、立花が死の直前に追っていた「最後のネタ」を調べるべく、かつて立花が寄稿していた雑誌の老編集長、佐久間に連絡を取った。
「立花さんの記事か……。ああ、あれは結局、どこも掲載しなかった」
数時間後、都内の場末の喫茶店で会った佐久間は、怯えたように周囲を見渡した。
「彼は、二〇〇四年の国有地払い下げに絡む『裏帳簿』の写しを持っていた。そこには、今の政界のトップに君臨する連中の名前がずらりと並んでいたんだ。彼が死んだ日、事務所からはパソコンもメモも、すべて持ち去られた。警察は空き巣の仕業だと言ったがね」
「その記事の草稿、あるいはバックアップはありませんか」
佐久間はためらった後、古びたフロッピーディスクを差し出した。
「立花は用心深い男だった。私の家のポストに、死ぬ一週間前、これを投げ込んでいったんだ。『俺に心不全が起きたら、これを世に出してくれ』という書き置きと一緒に。……だが、私は怖くて出せなかった。司馬先生も、同じ恐怖を抱えていたんだろうな」
俊作はフロッピーを受け取り、ノートパソコンに繋いだ。
読み込まれたテキストファイルには、父の日誌に記された「氷の暗殺」によって口を封じられた犠牲者たちのリストと、その暗殺を裏で指示した政治家たちの名前、そしてそれら全ての「不自然な死」を心不全として処理してきた大学病院の癒着構造が記されていた。
バラバラに散らばっていた点と点が、一つの線となって繋がっていく。
父は二十年以上前から、この国の「掃除屋」たちの仕事の後始末をさせられていたのだ。
「――いや、次は俺が、名前を書く番だ」
俊作は、ログハウスを後にした。
闇の中から、また一台、見慣れないセダンが静かに動き出したことに、彼はまだ気づいていなかった。
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