Protocol 2 : 沈黙の処方箋

 警察庁を名乗る男たちの追跡を逃れ、俊作は都心のビジネスホテルに身を潜めた。

 カーテンを閉め切った薄暗い部屋で、父・司馬宗一の二冊目の日誌を開く。

 ページをめくる指が止まったのは、五年前の初夏に記された一節だった。


【二〇二一年 六月二十二日:検体番号 21-D-108】

 その検体の名は、「佐野 充(さの みつる)」

 享年三十二。俊作もその名前には聞き覚えがあった。父と同じ大学病院に勤務していた気鋭の外科医だ。将来を嘱望されながらも、当直室で椅子に座ったまま息絶えているのが発見された。当時のニュースは「過酷な勤務実態」と「働き方改革の遅れ」を象徴する悲劇として、彼の死を「過労による心不全」と一斉に報じた。

 だが、父の記録は、社会が消費した「美談」とは真逆の惨状を綴っていた。


【外部所見】

顔面、四肢にチアノーゼ。死後硬直の進展は速い。

右前腕の静脈穿刺痕周囲に、不自然な皮下出血を確認。

病院側は「死亡直前、本人による疲労回復のためのビタミン剤自己投与」と主張しているが、穿刺部位の腫脹(はれ)はそれだけでは説明がつかない。


【内部所見】

通常、穏やかに停止した心臓は、筋肉が弛緩した「拡張期」の状態でだらりと膨らんでいるものだ。しかし、佐野医師の心臓は、まるで強烈な恐怖に縛り付けられたかのように、小さく、硬く、握り拳をつくったような**「収縮期」の状態のまま死後硬直を起こしていた。**

心筋が弛むことすら許されなかった絶命の瞬間。それは、高濃度のカリウム製剤が静脈から一気に流れ込み、心臓が強烈な痙攣を起こして「叩き止められた」ことを如実に物語っている。

通常の心不全で見られるような心肥大や弁の不全は皆無。そこにあるのは、健康そのものの若者が、化学的な暴力によって強制終了させられたという無残な記録だけだった。解剖開始直後、心臓は収縮期状態で停止。

通常の心不全で見られるような心肥大や弁の不全は皆無。

血液ガス分析の結果、血清カリウム濃度が測定不能なレベルまで急上昇している。

これは「心不全」ではない。**『高カリウム血症による意図的な心停止』**だ。


 俊作は息を呑んだ。

 俊作はページから目を離した。

 それは、医師なら誰もが知っている、そして絶対に使ってはならない薬だった。


 高濃度のカリウム製剤は、医療現場では劇薬として厳重に管理されている。一気に血管へ注入すれば、心臓の電気信号を強制終了させ、文字通り一瞬で死に至らしめる「暗殺の薬」にもなる。

 日誌は続く。


【背景と圧力】

 佐野医師は死の前日まで、外科部長による「医療ミス隠蔽」の証拠を握り、理事会への告発を準備していた。

 解剖中、外科部長の中川が解剖室へ入ってきた。彼は私の隣に立ち、死臭の漂う部屋で平然とこう言った。


『司馬君、彼は若すぎたんだ。疲れていたんだよ。彼一人を英雄にして、病院全体を潰すつもりか? 働きすぎによる心不全。それで誰もが救われる。遺族には十分な退職慰労金を出すよう手配してある』


 私のメスを握る手が怒りで震えた。だが、中川の背後には、警察OBが天下りしている大学評議会の影が見えた。

 日誌の余白には、黒々とした筆跡でこう刻まれていた。


『この病院は、死体を基礎杭にして建てられている。私はその土台を固めるための左官屋に成り下がった』


「……冗談じゃない」


 俊作はノートを叩きつけた。父は知っていたのだ。佐野医師が殺されたことを。そして、それを「過労死」という便利な言葉で塗り潰す手伝いをしたのだ。

 怒りと失望、そして父が抱えていたであろう絶望の深さに、俊作の胸が締め付けられる。

翌朝、俊作は父の教え子であり、当時解剖助手として働いていた女性、**浅野栞(あさの しおり)**を訪ねた。彼女は現在、大学を去り、民間の検査機関で働いている。


「司馬先生の日誌……やっぱり、遺されていたんですね」


 再開発から取り残されたような古い喫茶店で、栞は力なく微笑んだ。彼女の目は、俊作が持ってきた日誌のコピーを見た瞬間、怯えの色に染まった。


「あの日のことは忘れられません。佐野先生の血液サンプルを、司馬先生は密かに二つに分けました。一つは病院の公式な検査用。もう一つは、先生が隠し持つための『真実』用です」

「そのサンプルはどこにあるんですか?」

「わかりません。でも、先生はよく仰っていました。『証拠は常に、最も死に近い場所に隠すべきだ』と。そして……」


 栞は言葉を切り、周囲を警戒するように声を潜めた。


「佐野先生は、病院が絶対に表に出してはいけない“一覧”を作っていました。大学病院が警察幹部の親族に対して行っていた、優先的な臓器移植の不正リストです。それを隠蔽するために、彼は消された……。俊作さん、もう止めてください。先生が亡くなったのは、これ以上、日誌に名前が増えるのを防ぐためだったのかもしれないんです」

「父も、消されたというのか?」


 俊作が問い詰めたその時、栞の言葉が途切れた。彼女の視線が、俊作の背後で凍りつく。


「裏口から逃げろ!」


 俊作は栞を促し、自分も店を飛び出した。

 五年前の佐野医師の死、そして父の死。

「心不全」という名の黒い霧は、今もなお俊作のすぐ背後まで迫っていた。

 父が日誌に託したのは、単なる過去の記録ではない。現在進行形で動き続ける、巨大な「殺人のシステム」への宣戦布告だったのだ。

 俊作は走りながら誓った。

 日誌に記されたすべての「心不全」の裏側を暴くまでは、絶対に止まらない。


 日誌には、まだ俊作の知らない名前があった。

 次のページに記された死因もまた──心不全。

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