ある解剖医の日誌
Omote裏misatO
Protocol 1:聖域の鍵
四十九日の法要を終えた司馬家の自宅は、線香の残り香と、主を失った静寂に包まれていた。
司馬俊作は、重い足取りで二階の書斎へ向かった。
父・司馬宗一は、国内屈指の大学病院で病理医・解剖医としてその名を馳せた男だった。若い頃は外科医として執刀し、その後、病理に転じた異色の経歴を持つ。
息子である俊作には、常に「遺体はすべてを語る、だが生きた人間は嘘を吐く」と説き、家庭を顧みず解剖室にこもる、冷徹なまでの仕事人間だった。健介は父に反発するように医者の道を捨て、週刊誌の記者になった。真実を追うという点では同じだったはずだが、二人の間には常に深い溝があった。
「……さて、どこから手を付けるか」
埃の舞う書斎には、壁一面に医学書と論文の別刷りが並んでいる。デスクの引き出しを整理していた健介の手が、最下段の奥で止まった。そこには、父が愛用していた古い「万年筆の洗浄キット」の箱が置かれていた。
何気なく箱を開けると、中から出てきたのは一本の古びた万年筆と、一枚の小さな紙切れだった。
『記録はすべて、灰にした。だが、真実は私の肉(しし)に刻まれている』
父の筆跡だ。俊作は眉をひそめた。記録を灰にした? あれほど几帳面だった父が、生涯の仕事を焼き捨てたというのか。
ふと、紙切れの裏に細かな数字の羅列が記されているのに気づいた。それは緯度と経度、そして「16-A-402」という検体番号のような記号だった。
その時、一階の玄関チャイムが激しく鳴った。
約束した客はいない。俊作は咄嗟に紙切れをポケットにねじ込み、窓から外を確認した。
そこに立っていたのは、見慣れない黒いスーツの男二人組だった。表情はなく、どこか「公的な暴力」を隠し持っているような雰囲気を纏っている。
「司馬宗一先生のご遺族でしょうか。警察庁の者ですが、先生が管理されていた機密資料の回収に伺いました」
インターホン越しに聞こえる声は冷酷だった。
心臓が喉元までせり上がってくる。彼らは「資料」があると思って来ている。だが、父はそれを灰にしたと書いている。
俊作は直感した。父が死んで四十九日。監視の目が解けるこの日を、彼らは待っていたのだ。父が生前、彼らを何らかの「切り札」で牽制していたのだとしたら、その効力が切れるのは主がいなくなった今しかない。
俊作は裏口から逃げるように家を出た。
ガレージに滑り込み、古い四輪駆動車を急発進させる。バックミラー越しに、男たちが強引に玄関の鍵を壊して踏み込むのが見えた。
数キロ離れたコインパーキングに車を止め、俊作は震える指でスマートフォンを取り出した。父が残した記号「16-A-402」を、記者専用のアーカイブで検索する。
出てきたのは、十年前、日本中を震撼させた人気女優・美月真理(みつき まり)の急死事件だった。
「……心不全」
公式発表された死因。当時、ネットでは他殺説が飛び交ったが、警察の素早い幕引きによって「過労死」として処理された。
俊作は、父が残した座標の場所へ向かった。それは大学病院の裏手にある、古びた貸金庫室だった。
父の遺品から見つけた真鍮の鍵と、紙切れの数字を組み合わせて扉を開く。
「……よし、開いた」
俊作はパーキングに止めた車内で、ノートパソコンの画面を凝視した。
展開されたのは、生々しい解剖写真と、公式の鑑定書には決して載ることのなかった「真実の所見」の数々だった。
【美月真理:死因・頸部圧迫による窒息。警察上層部より『心不全』への書き換え指示あり】
父は、組織の歯車として嘘を吐きながら、いつか息子がこの「パンドラの箱」を開ける日を信じて、すべてをデジタルに焼き付けていたのだ。父が「日誌を焼き払った」のは、当局の目を欺くためのパフォーマンスに過ぎなかった。
だが、その時。俊作はバックミラーに映る影に気づき、心臓が凍りついた。
あの黒いセダンが、迷いのない足取りでパーキングの入り口を塞ぐように入ってきたのだ。
「……なぜだ。スマホの電源は切っているはずなのに」
俊作は反射的に車を急発進させ、男たちの制止を振り切って路上へ飛び出した。
ハンドルを切りながら、ふと嫌な予感がよぎる。信号待ちの隙に車を降り、リアバンパーの裏側に手を伸ばした。指先に、見慣れないプラスチックの小さな突起が触れた。
磁石式のGPS発信機。
「そうか……四十九日の法要の間か」
家を空けていた数時間。彼らは法要のドサクサに紛れ、ガレージに忍び込んでいたのだ。彼らは日誌を探す一方で、もし見つけられなかった場合に備え、息子である俊作を「動くビーコン」に仕立て上げていた。俊作が父の隠し場所に辿り着くのを、彼らはただ待っていればよかったのだ。
俊作は発信機を引き剥がし、通りがかったトラックの荷台へ投げ飛ばした。
手の中にあるメモリは、重い。これには父が命を削って集めた、この国の「死の真相」が詰まっている。
「親父、あんたは最後まで、解剖医だったんだな」
バックミラーの中で、トラックを追って見当違いの方向へ消えていく追跡者の影。
俊作は、父が遺したメモリの第二ファイル――五年前、医療ミスを告発しようとして「過労死」させられた若手医師の記録を暴くため、夜の国道を加速した。
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