序章:掌《てのひら》の上の創世記
第1話:実験体コードNo.01『黄金の齧歯類』
クシ、クシ、クシ、クシ。
意識が覚醒すると同時に、私の両手は高速で顔面を摩擦していた。
止まらない。止められない。
前足に唾液をつけ、顔を洗うこの動作。どうやら私の意思ではなく、脊髄反射レベルで組み込まれたプログラムのようだ。
(……ふむ。衛生管理プロトコルが自動起動しているのね。合理的だけど、少し鬱陶しいわ)
私は一通りの
(……待ちなさい。今の思考言語、明らかにこの「ハードウェア」のスペックを超えているわね)
私は自分の小さな頭を前足でポンポンと叩いた。
齧歯類の脳重量は、わずか数グラム。大脳新皮質も未発達だ。
本来であれば「餌、食う」「敵、逃げる」「交尾、する」程度の本能的演算しか処理できないはずである。
だが今の私は、現状分析を行い、複雑な言語体系を操り、自己を客観視している。
(物理的な脳細胞に依存した思考じゃない。これは――『上書き』ね)
外部演算装置(魂)が、端末(ハムスターの肉体)をリモート操作している感覚。あるいは、既存のOSの上に、無理やり別規格のハイエンドOSをインストールした状態か。
いわゆる「憑依」という非科学的な現象だが、今はそう定義するのが最も論理的だ。
(なるほど。神様とやらの「アセット供与」とは、肉体の構成物質ではなく、魂の器としての提供だったわけか。……悪くない実験環境だわ)
私は仮説の検証を終え、改めて自分のボディ・スペックを確認することにした。
場所は森の中。鬱蒼としたシダ植物が生い茂っている。
近くの水たまりを鏡代わりに、全身をスキャンする。
クリーム色の腹部。
小豆のような黒くつぶらな瞳。
そして、何でも詰め込みたくなる伸縮自在の頬。
「……分類、齧歯目キヌゲネズミ科。通称、
前世のペットショップでよく見かけた、改良品種だ。
なぜ石器時代(と思われる環境)に現代の改良種がいるのか。時空の整合性すら無視するランダム選出らしい。
(さて、
私は短い後ろ足で立ち上がり、脳内でシミュレートを開始した。
【ステータス・チェック】
[名 称]ゴールデンハムスター(メス)
[攻撃力]■□□□□(G)※皆無。本気で噛んで「痛っ」レベル。
[防御力]■□□□□(G)※大福クラス。踏まれたら死ぬ。
[敏捷性]■■□□□(E)※無駄に素早いが、移動距離が稼げない。
[寿 命]■□□□□(短)※2~3年。バグレベルの短さ。
>> 結論:自殺志願者向けのハードウェア <<
「……クソゲーね」
思わず毒づいたが、口から出たのは「ちゅ?」という間の抜けた音だった。声帯機能の制限か。
この過酷な野生において、このスペックは自殺志願者と同義だ。
だが、この体はただの器。私が運用すれば、話は別だ。
私は口を大きく開けてみた。
顎関節が外れんばかりに開く。そして、頬の内側にある袋状の器官――頬袋に意識を集中する。
(……広い。思ったよりも容量があるわね)
ただの袋ではない。空間がねじ曲がっているような感覚。
試しに足元の小石を放り込んでみる。入った。
もう一つ。入った。
自分の体積と同じくらいの石を飲み込んでみたが、外見は少し膨らんだ程度だ。重さも感じない。
(ビンゴ。これは物理法則を無視した『
これなら食料の備蓄はもちろん、危険物や毒物の運搬も可能だ。
科学者として、まずはこの能力を評価しよう。生存率は数パーセント上がった。
ガサッ。
茂みが揺れた。
思考を中断する。
野生の本能が警鐘を鳴らした。心拍数が跳ね上がり、ヒゲがピクピクと震える。
現れたのは、獣ではない。
二本足で歩く、毛皮を纏った霊長類――人間だ。
ぼさぼさの黒髪に、泥で汚れた顔。
年齢は10代前半だろうか。獣皮の腰巻き一丁の少女だった。
手には、鋭利に研がれた黒曜石の石斧が握られている。
(……
少女――仮に「ウラ」と呼称する――の目が、私を捉えた。
その瞳に宿っているのは「愛護」の精神ではない。
明確な「食欲」だ。
彼女にとって、私はただの肉厚なネズミ。貴重なタンパク源に過ぎない。
「ウッ!」
ウラが短く叫び、石斧を振り上げた。
速い。
ハムスターの足では、逃げ切れない。
(回避不能。迎撃不能。……ならば、使うしかないわね。このボディに搭載された、もう一つの『最強スキル』を)
私は逃げるのをやめた。
あえてウラの正面に向き直る。
そして、計算し尽くされた角度で脊椎を伸ばし、後ろ足だけで直立する。
首を15度、右に傾げる。
黒く潤んだ瞳で、相手の目をじっと見つめる。
仕上げに、ピンク色の鼻先をヒクヒクと痙攣させる。
発動、固有スキル――『
ブンッ!
石斧が振り下ろされた――が、私の鼻先数センチでピタリと止まった。
ウラの腕が震えている。
彼女の視線は、私のつぶらな瞳と、ふかふかの黄金色の毛並みに釘付けになっている。
彼女の脳内で、ドーパミンとオキシトシンが爆発的に分泌されているのが、手に取るように分かる。
「ウ……ウウ……?」
殺意が、困惑へ。そして強烈な「庇護欲」へと書き換わっていく。
石斧が手から滑り落ちた。
ウラは膝をつき、恐る恐る私に手を伸ばしてくる。
「……ちゅ(計画通り)」
私は抵抗せず、彼女の汚れた掌に乗ってやった。
温かい。体温36.5度前後。暖房器具としても優秀だ。
私は彼女の親指に、わざとらしく頬ずりをした。
ウラの顔が紅潮し、口元がだらしなく緩む。
「ウア! カワイイ!」
言葉は分からないが、意味は通じた。
私は心の中で、冷ややかな勝どきを上げる。
(チョロい。前頭葉の働きが単純だわ。この個体を、私の『
こうして、最弱の齧歯類による、人類支配の第一歩が記されたのだった。
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