第2話 読めない報告書と、出ない散歩
朝、倉橋は目を覚ました。
目覚ましは鳴っていない。
鳴る前に起きたのか、鳴らなかったのかは分からない。
平屋の天井は低い。
築年数を正確に言える人間はいない家だ。
壁紙の色は、白とも灰色とも言えない。
身体を起こすと、床が少し冷たい。
靴下は、昨夜脱いだ場所にない。
居間に出ると、犬がいた。
テレビ台の横、陽の当たらない角。
いつもの場所だ。
倉橋が首輪を手に取っても、犬は立ち上がらない。
こちらを見るだけで、尾も動かさない。
「……行かないか」
声に出してみる。
返事はない。
犬は返事をしない。
それでも、普段なら立ち上がる。
今日は動かない。
倉橋は首輪を棚に戻した。
理由を考えようとして、やめる。
キッチンで湯を沸かし、コーヒーを淹れる。
湯気を確認してから一口飲んだ。
苦味は、いつも通りだった。
犬が歩いてきて、テーブルの下に伏せる。
足元に重みがある。
それで十分だと思ってしまう。
窓の外は静かだった。
郊外の朝は、音が少ない。
時計を見る。
針は進んでいる。
問題ない。
今日は散歩に行かない朝だ。
そういう日もある。
軽自動車を走らせ、職場に向かう。
助手席には犬がいる。
特別なことは何もない。
信号で止まり、また走る。
建物は低く、目立たない。
倉橋の職場は、そういう場所にある。
デスクに着くと、書類が置かれていた。
異世界関連案件。
分類は曖昧。
異世界帰還者――未満。
倉橋は、先に別の報告書を開いた。
異世界技術回収部門の提出資料だ。
申請は済んでいる。
読む資格はある。
一行目。
「対象世界において、被験者は――」
そこから先に進めない。
文字は読める。
意味も分かるはずだ。
だが、頭に入らない。
同じ行を、もう一度読む。
結果は変わらない。
倉橋は、ページを閉じた。
内容が悪いわけではない。
今日は、そういう日らしい。
そのまま、案件資料に手を伸ばす。
面談室に通された男は、三十代だった。
職業、会社員。
表情は落ち着いている。
取り乱してはいない。
「転生したんです」
男はそう言った。
倉橋は、頷きもしない。
「向こうでは……別の人生でした。
気づいたら子供で、成長して、
最後は、死んで」
「力は?」
「ありません」
即答だった。
「魔法も、スキルも?」
「ないです」
倉橋は資料に目を落とす。
異世界由来の能力反応は検出されていない。
身体にも異常はない。
「知識は?」
男は少し考えた。
「……あります。
でも、使えるかどうかは分かりません」
それで十分だった。
「あなたは、異世界に行っていません」
男の眉がわずかに動く。
「でも――」
「行っていない」
倉橋は繰り返した。
「ただし、
異世界の誰かと、夢を介して混線しています」
説明はそれだけ。
男は理解した様子を見せなかった。
それでいい。
処理室。
倉橋は、帰還紋に触れた。
この案件は、送還ではない。
帰還でもない。
記憶の接続を切るだけだ。
詠唱は短い。
いつも通り。
空気が、わずかに揺れた。
男が、息を呑む。
「……あ」
それだけだった。
数秒後、男の表情から何かが抜け落ちる。
安堵でも、喪失でもない。
「……長い夢を見てた気がします」
それが正しい。
異世界の人生は、夢に戻された。
処理後、倉橋はデスクに戻った。
先ほど閉じた報告書を、もう一度開く。
一行目。
二行目。
今度は、読める。
倉橋は、ほんの一瞬だけ手を止めた。
朝の自分を思い出そうとする。
なぜ読めなかったのか。
答えは出ない。
まあいい、と自然に思う。
足元に、犬が来て座った。
帰宅後、犬は特別なことをしない。
ただ、離れない。
テレビをつけたまま、倉橋は眠っていた。
途中で、電源が切れた気配がした。
翌朝。
犬は首輪の前に座っていた。
散歩に行く日だ。
倉橋は、それで十分だと思った。
理由を考えなくても、
世界は、ちゃんと続いている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます