【第9章:朝が来なかくても】

 澪は、

 眠る時間が増えた。


 それは突然じゃなかった。

 少しずつ、

 確実に。


 最初は、

 昼寝が長くなっただけ。


「昨日、

 ちょっと疲れちゃって」


 そう言って、

 笑っていた。


 でも次は、

 会話の途中で、

 目を閉じるようになった。


 声をかけると、

 ゆっくり目を開けて、


「……ごめんなさい」


 それだけ言って、

 また眠る。


 起こすことが、

 正しいのか分からなかった。


 俺が部屋を訪れると、

 澪は眠っていることが多くなった。


 紗良が、

 小さな声で言う。


「今日は、

 さっきまで起きてたんだけど」


「……そっか」


「少しだけ、

 疲れたみたい」


 疲れた。


 それは、

 便利な言葉だった。


 理由を説明しなくていい。

 終わりを、

 言わなくていい。


 澪の部屋は、

 さらに静かになった。


 カーテンは、

 半分だけ閉められている。


 光が、

 優しすぎるくらい、

 柔らかい。


 俺は、

 ベッドの横に座り、

 澪の寝顔を見る。


 呼吸は、

 浅いけど、

 確かに続いている。


 それだけで、

 胸が締めつけられた。


 ある日、

 澪が目を覚ました。


「……朝比奈くん?」


 声は、

 かすれていた。


「いるよ」


 それだけ言うと、

 澪は安心したように、

 少し微笑んだ。


「今日は……

 何日ですか」


「○○日」


「そっか」


 それ以上、

 何も言わなかった。


 日付を聞く理由を、

 聞かなかった。


 澪は、

 もう長く話せなかった。


 言葉を探すのが、

 大変そうだった。


 でも、

 伝えたいことは、

 まだあるみたいだった。


 澪は、

 俺の方を見て、

 ゆっくり瞬きをした。


 ――合図だった。


 紗良が、

 小さくうなずく。


「まばたき、

 一回で“はい”、

 二回で“いいえ”ね」


 澪は、

 一度、

 瞬いた。


「寒い?」


 一回。


「喉、

 渇いてる?」


 二回。


「……そっか」


 俺は、

 そのやり取りが、

 たまらなくつらかった。


 でも、

 澪は不思議と、

 穏やかだった。


 夕方。


 医師が来て、

 短く話をした。


 専門的な言葉。

 慎重な言い回し。


 紗良は、

 静かに聞いていた。


 俺は、

 ほとんど頭に入らなかった。


 最後に、

 医師が言った。


「今夜か、

 明日かもしれません」


 それだけ。


 未来が、

 急に近づいた。


 紗良が、

 俺を廊下に呼び出した。


「……ねえ」


 声が、

 震えている。


「今日」


「朝比奈は、

 帰って」


「……え?」


 紗良は、

 涙をこらえていた。


「澪ね」


「朝比奈が来ると、

 頑張っちゃうの」


 その言葉で、

 全部分かった。


 起きようとすること。

 話そうとすること。

 無理をすること。


 生きようと、

 してしまうこと。


「……それは」


 反論しようとして、

 出来なかった。


「今日は」


 紗良は、

 はっきり言った。


「会わない方が、

 優しい」


 部屋に戻ると、

 澪は眠っていた。


 俺は、

 声をかけなかった。


 ただ、

 そこに立って、

 見ていた。


 胸が、

 ゆっくり上下する。


 それが、

 壊れそうで。


 帰る前。


 俺は、

 ベッドの横に立ち、

 小さく言った。


「ありがとう」


 聞こえないくらいの、

 声で。


 澪の指が、

 ほんの少し、

 動いた気がした。


 偶然かもしれない。


 でも、

 それでよかった。


 夜。


 スマホが鳴った。


 画面に、

 紗良の名前。


 出る前に、

 もう分かっていた。


「……うん」


『さっきね』


 紗良の声は、

 泣いていた。


『静かに、

 眠るみたいに』


『苦しそうじゃ、

 なかった』


 それだけで、

 十分だった。


 俺は、

 何も言えなかった。


 泣かなかった。


 ただ、

 息をしていた。


 窓の外。


 空が、

 少しずつ明るくなる。


 朝が、

 来ていた。


 でも、

 澪の朝は、

 来なかった。


 朝が来なくても、

 世界は続く。


 それが、

 一番残酷で、

 一番現実だった。


 俺は、

 その朝を、

 一人で迎えた。

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