第8章:言葉にしない約束

澪が「ちゃんと話したい」と言った日、

 空はやけに高かった。


 雲が、

 ゆっくり流れていく。


 何も知らないみたいに。


 澪の部屋は、

 前よりも静かだった。


 時計の音が、

 やけに大きく聞こえる。


 澪は、

 ベッドに横になっていた。


 起き上がるのが、

 少し大変そうだったから。


「来てくれて、ありがとう」


 声は、

 前より小さい。


「うん」


 それだけで、

 十分だった。


 紗良は、

 今日は少し早めに帰ると言って、

 軽く会釈をして部屋を出た。


 扉が閉まる音が、

 やけに重かった。


 二人きり。


 沈黙が、

 自然に落ちてくる。


 澪は、

 天井を見つめていた。


「……朝比奈くん」


「なに」


「今日は」


 少し、息を整える。


「聞いてほしいことがあります」


 俺は、

 椅子を引き寄せ、

 ベッドの横に座った。


「うん」


 それ以上、

 何も言わなかった。


 澪は、

 ゆっくり言葉を選んでいた。


「前に、

 行きたい場所リスト、

 作ってたじゃないですか」


「覚えてる」


「実は」


 澪は、

 一度目を閉じた。


「全部、

 行けるとは思ってなかったんです」


 その言葉は、

 あまりにも静かだった。


 でも、

 胸に、

 深く刺さった。


「じゃあ、

 なんで……」


 途中で、

 言葉を止めた。


 聞かなくても、

 分かっていたから。


「一人じゃ、

 行きたくなかったんです」


 澪は、

 少しだけ笑った。


「誰かと、

 思い出にしたかった」


 俺は、

 手を握りしめた。


 何も、

 返せなかった。


 澪は、

 そっとこちらを見た。


「朝比奈くんは」


 呼吸が、

 少し荒くなる。


「私のこと、

 どう思ってますか」


 逃げ場のない、

 問いだった。


 でも、

 澪の目は、

 答えを急がせていなかった。


 俺は、

 正直に言った。


「……大切だよ」


 それだけ。


 澪は、

 満足そうに目を細めた。


「それで、

 十分です」


 少しして、

 澪が続けた。


「お願いが、あります」


「なに」


「これから」


 澪は、

 ゆっくり言葉を並べる。


「私の代わりに、

 未来を生きてください」


 空気が、

 一瞬止まった。


「重い、ですか」


「……うん」


 正直に言った。


 澪は、

 くすっと笑った。


「ですよね」


 それから、

 真剣な顔になる。


「でも」


「私がいなくなったあとも」


 いなくなったあと。


 その言葉を、

 澪は躊躇なく使った。


「誰かと笑って、

 誰かを大事にして」


「ちゃんと、

 幸せになってください」


 俺は、

 首を振った。


「そんなの、

 簡単に言うなよ」


 声が、

 震えた。


 澪は、

 それを見て、

 安心したみたいだった。


「そう言ってもらえると、

 助かります」


 澪は、

 枕元を指さした。


「そこに、

 ノートがあるんです」


 俺が取ると、

 薄いノートが一冊。


「それ」


「全部、

 紗良に渡す予定です」


「でも」


 澪は、

 俺を見た。


「最後の一ページだけ、

 空けてあります」


 意味が、

 分かってしまった。


「書けなくなったら」


「……朝比奈くんが、

 代わりに書いてください」


 俺は、

 ノートを閉じた。


「そんなこと、

 出来ない」


「出来ます」


 澪は、

 静かに断言した。


「だって」


「私のこと、

 ちゃんと見てくれてるから」


 それは、

 信頼だった。


 重くて、

 温かい。


 少し、

 疲れたのか。


 澪は、

 目を閉じた。


「……少し、

 休みます」


「うん」


 俺は、

 その場を動かなかった。


 寝息が、

 浅く聞こえる。


 胸が、

 上下する。


 それだけで、

 安心してしまう自分がいた。


 帰る時間。


 澪は、

 目を開けた。


「約束、

 しなくていいです」


 突然、

 そう言った。


「……え?」


「言葉にすると」


「守れなかったとき、

 つらいから」


 俺は、

 黙ってうなずいた。


 澪は、

 それで満足そうだった。


「じゃあ」


 最後に、

 小さく言う。


「心の中で、

 お願いします」


 玄関で、

 靴を履きながら振り返る。


「また来る」


 そう言いかけて、

 やめた。


 澪は、

 何も言わなかった。


 ただ、

 目でうなずいた。


 廊下に出た瞬間、

 膝が震えた。


 これが、

 準備なんだと思った。


 別れのための、

 静かな準備。


 言葉にしない約束は、

 もう、

 胸の奥で結ばれていた。

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