【第7章:動かない手】

 最初に動かなくなったのは、

 手だった。


 正確に言えば、

 「思った通りに動かなくなった」。


 澪は、それを失敗として扱った。


「あ、また落としちゃった」


 スプーンが、テーブルの上で小さな音を立てる。


「ごめんなさい」


 謝る必要なんてないのに、

 澪はいつも、先にそう言った。


「大丈夫だよ」


 俺がそう言っても、

 澪は自分の手をじっと見つめる。


 まるで、

 言うことを聞かない他人みたいに。


 三人で集まる頻度は、

 少しずつ減っていった。


 外に出るのが難しくなって、

 澪の部屋で会うことが増えた。


 白いカーテン。

 低いテーブル。

 薬の瓶が、

 さりげなく端に寄せられている。


「散らかってて、ごめんなさい」


「全然」


 紗良は、

 慣れた手つきでクッションを直した。


 俺は、

 どこに座ればいいのか、

 毎回少し迷った。


 澪は、

 ペンを持たなくなった。


 ノートは、

 もう開かれない。


「書かないの?」


 俺がそう聞くと、

 澪は少し困った顔をした。


「……うまく書けなくて」


「文字?」


「線が、思ったところに行かないんです」


 その言い方は、

 あまりにも冷静だった。


 紗良が、

 代わりにメモを取る。


「言って。

 私が書く」


 澪は、

 少しだけ考えてから首を振った。


「いいです。

 頭の中には、あるから」


 それが、

 本当かどうか、

 俺には分からなかった。


 食事の時間。


 最初は、

 俺が手伝うのを澪は嫌がった。


「自分で出来ます」


 その声は、

 はっきりしていた。


 でも、

 フォークが落ちる。

 指が、力を失う。


「……ごめんなさい」


 また、それだった。


 結局、

 紗良が横に座り、

 さりげなく皿を押さえる。


 俺は、

 その距離に入れなかった。


 入っていいのか、

 分からなかった。


 言葉も、

 少しずつ減っていった。


 疲れると、

 澪は黙る。


 無理に話そうとすると、

 言葉が途切れる。


「……あの」


 そこから先が、

 出てこない。


 俺は、

 続きを待った。


 でも、

 澪は首を振る。


「……いいです」


 それが、

 一番つらかった。


 ある日、

 澪はスマホを落とした。


 画面が、

 床に向かって滑る。


 拾おうとして、

 手が届かない。


「……あ」


 その声は、

 今までで一番小さかった。


 俺は、

 反射的に拾った。


 澪の前に差し出す。


「ありがとう」


 でも、

 受け取れない。


 指が、

 閉じない。


 その瞬間、

 澪の目に、

 はっきりとした感情が浮かんだ。


 ――悔しさ。


 紗良が、

 そっと手を重ねる。


「私が持つ?」


 澪は、

 一瞬だけ迷ってから、

 小さくうなずいた。


 そのうなずきが、

 何かを手放した合図みたいで、

 俺は視線を逸らした。


 夜。


 俺が帰ろうとすると、

 澪が呼んだ。


「朝比奈くん」


「なに?」


 少し、間があった。


「……手」


「手?」


「触っても、いいですか」


 紗良が、

 何も言わずに席を外した。


 部屋に、

 二人だけになる。


 俺は、

 澪の前に座り、

 差し出された手を見る。


 細くて、

 白くて。


 でも、

 前より、

 力がない。


「どうぞ」


 そう言うと、

 澪はゆっくり、

 俺の手に触れた。


 指先が、

 微かに震えている。


「……あったかい」


 それだけ言って、

 澪は目を閉じた。


「前は」


 ぽつりと、

 言葉が落ちる。


「もっと、いろんなこと、

 出来ると思ってました」


 俺は、

 何も言えなかった。


「でも」


 澪は、

 指を動かそうとして、

 やめた。


「今は……

 伝えられれば、いいです」


「何を」


 澪は、

 ゆっくり目を開けて、

 俺を見た。


「気持ち」


 それだけだった。


 帰り道、

 俺は初めて泣いた。


 声は出さなかった。


 ただ、

 息が詰まって、

 歩けなくなった。


 動かない手より、

 動かせない言葉の方が、

 ずっと重かった。


 数日後。


 澪から、

 短いメッセージが来た。


「今度、

 ちゃんと話したいです」


 その「ちゃんと」が、

 何を意味するのか、

 考えないふりをした。


 でも、

 胸の奥では、

 分かっていた。


 伝えたいことは、

 もう多くない。

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