︎【第6章:それでも行きたかった場所】

 澪が「しばらく会えない」と言ったのは、

 あの駅での出来事から、数日後だった。


「ちょっと、立て込んでて」


 電話越しの声は、

 いつもより少し遠かった。


「忙しい?」


「……うん、そんな感じ」


 それ以上、聞かなかった。

 聞けなかった。


 代わりに、

 俺は次の予定の話をした。


「じゃあ、落ち着いたら、あそこ行こう」


 前に話していた、少し遠い場所。

 日帰りじゃ厳しいけど、

 一泊なら行ける距離。


 少し、間が空いた。


「……ごめんなさい」


 澪は、はっきりそう言った。


「今回は、やめとこう」


 理由は言わなかった。

 でも、それで十分だった。


 再会したのは、

 それから二週間後。


 待ち合わせ場所に現れた澪は、

 少しだけ、雰囲気が変わっていた。


 歩く速度が、はっきり遅い。

 そして――


「……それ」


 言葉が、喉で止まった。


 澪の隣に、

 車椅子があった。


 押しているのは、紗良だった。


「久しぶり」


 澪は、いつも通りに笑った。


 その笑顔が、

 逆に胸を締めつけた。


「えっと……」


 俺が言葉を探していると、

 澪が先に言った。


「びっくりしました?」


「……正直、少し」


「ですよね」


 軽い調子だった。

 まるで、新しい靴でも見せるみたいに。


「長く歩くと、疲れちゃうので。

 これ、借りてるだけです」


 借りてるだけ。

 その言葉に、

 紗良が一瞬だけ目を伏せた。


 その日の目的地は、

 澪が「どうしても」と言った場所だった。


 海沿いの、小さな展望台。


 以前、

 「遠くまで電車で行く」の候補に出ていた場所。


「旅行は無理でも、

 ここなら行けるかなって」


 澪はそう言って、

 行き先を決めた。


 紗良は、

 事前にルートを調べていた。


 段差の少ない道。

 エレベーターのある駅。

 休める場所。


 俺は、

 それを何も知らなかった自分を、

 少しだけ恥ずかしく思った。


 電車の中。


 澪は、窓側に座っていた。

 車椅子は、折りたたまれて足元にある。


「久しぶりに、遠くまで来た気がします」


「前は、もっと行きたがってたのにな」


 そう言うと、

 澪は少しだけ困った顔をした。


「……欲張りだったんです」


「今は?」


「今は」


 一瞬、言葉を探す。


「ちゃんと、選びたいです」


 何を、とは言わなかった。

 でも、その“選ぶ”という言葉が、

 胸に残った。


 駅を降りて、

 海へ向かう道。


 紗良が、車椅子を押す。


「代わろうか」


 俺が言うと、

 澪が首を振った。


「いいです」


 少し、強い口調だった。


「……今日は」


 続けて言う。


「紗良がいい」


 紗良は何も言わず、

 ただうなずいた。


 俺は、

 一歩後ろを歩いた。


 その距離が、

 今の俺の立ち位置だと思った。


 展望台に着く頃、

 日は少し傾いていた。


 海は、

 静かだった。


「来れて、よかった」


 澪は、

 そう言って深く息を吸った。


 風が、

 澪の髪を揺らす。


「前に言ってましたよね」


 俺が言う。


「写真で見るより、

 ちゃんと見たいって」


「言いました」


「どう?」


 澪は、しばらく海を見つめてから、

 小さくうなずいた。


「……思ってたより、広い」


 それだけだった。


 でも、その一言に、

 全部が詰まっている気がした。


 しばらくして、

 澪が言った。


「朝比奈くん」


「なに」


「旅行、行けなくなってごめんなさい」


「謝ることじゃない」


「……でも」


 澪は、

 手元を見つめる。


「行きたかったんです。

 本当は」


 その声は、

 初めて、少しだけ震えていた。


「知らない場所で、

 知らない朝を迎えるの」


 俺は、

 何も言えなかった。


 言葉を選ぶ時間すら、

 もったいない気がして。


 代わりに、

 こう言った。


「じゃあさ」


 澪が、顔を上げる。


「ここを、旅行にしよう」


「……え?」


「一日だけでも。

 今、この時間を」


 澪は、

 驚いたように目を見開いて、

 それから、ゆっくり笑った。


「それ、ずるいですね」


「褒めてる?」


「はい」


 帰り道。


 夕焼けが、

 海を赤く染めていた。


 澪は、

 車椅子に座ったまま、

 何度も振り返った。


「ねえ」


 突然、澪が言う。


「また、来れますかね」


 俺は、

 一瞬だけ迷ってから答えた。


「来れる」


 根拠は、なかった。


 でも、

 約束は、

 そういうものだと思った。


 澪は、

 それで満足したみたいだった。


「じゃあ、それも約束」


 小さく、そう言った。


 帰りの電車。


 澪は、途中で眠ってしまった。


 首が、

 少し前に落ちている。


 紗良が、

 そっと支える。


 俺は、

 その光景を見ながら思った。


 最後の遠出、なんて言葉は、

 まだ使いたくなかった。


 でも、

 この時間が、

 何かの終わりに近いことだけは、

 否定できなかった。


 駅に着く頃、

 澪は目を覚ました。


「……あれ、もう?」


「おかえり」


 そう言うと、

 澪は少し照れた。


「今日は……楽しかったです」


 その言葉が、

 胸に深く沈んだ。


 楽しかった、

 過去形だったから。


 別れ際。


 澪は、

 車椅子の上で、

 俺を見上げた。


「朝比奈くん」


「ん?」


「今日のこと」


 少し、間を置いて。


「忘れないでくださいね」


 それは、

 第1章で聞いた言葉と、

 同じだった。


 でも、

 重さが、

 まるで違った。


 俺は、

 はっきりうなずいた。


「忘れない」


 澪は、

 それを聞いて、

 安心したように目を閉じた。

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