︎【第4章:減っていくもの】

 変化は、いつも静かに始まる。


 何かが壊れる時、音がするとは限らない。

 むしろ、気づいた時にはもう、元の形を思い出せなくなっている。


 その頃の俺たちは、よく三人で集まっていた。


 特別な場所じゃなくていい。

 駅前のカフェ、川沿いの遊歩道、

 ただ並んで歩くだけの日もあった。


「今日は、どこ行く?」


 そう聞くと、澪は少し考えてから答える。


「……近いところ」


 以前なら、すぐに「ここ」と言っていたのに。


 それを不思議に思ったのは、最初だけだった。


 ある日、三人で映画を観に行った。


 話題作で、上映時間は少し長めだった。


「大丈夫?」


 チケットを買う列に並びながら、紗良が小声で聞く。


「うん。平気」


 澪は即答したけれど、

 上映中、彼女は何度も姿勢を変えていた。


 椅子に深く座り直したり、

 背もたれに寄りかかったり。


 エンドロールが流れる頃、

 澪はほっとしたように息を吐いた。


「面白かった?」


「……うん」


 少し間があった。


 紗良は何も言わなかったけど、

 その沈黙が、妙に長く感じられた。



 別の日。


 ノートに書かれていた「少し遠くまで電車で行く」という項目を、

 ようやく実行しようとした。


「乗り換え、二回あるけど大丈夫か?」


「大丈夫です」


 そう言った澪は、

 電車が混み始めると、つり革に手を伸ばした。


 でも、掴みそこねた。


「あ」


 反射的に、俺が肩を支える。


「ごめん」


「いや」


 澪は、すぐに手を離した。


「ただ、ちょっと眠かっただけ」


 そう言って笑ったけれど、

 その笑顔は、いつもより薄かった。


 紗良は、澪の立ち位置をさりげなく変え、

 人の少ない場所へ誘導する。


 まるで、何度もやってきたみたいに。


 澪は、よく物を落とすようになった。


 スマホ。

 ペットボトル。

 小銭。


「あ、ごめんなさい」


 拾い上げながら言う言葉が、少し増えた。


「最近、多くない?」


 冗談めかして言うと、

 澪は少しだけ困った顔をした。


「前からです」


「そうだっけ」


「そうです」


 言い切られて、それ以上聞けなかった。


 やりたいことリストも、少しずつ変わっていった。


 消された項目があるわけじゃない。

 ただ、後ろに回されていく。


「遊園地、また行こう」


 俺が言うと、澪は一瞬考える。


「……もう少し、涼しくなってから」


「じゃあ、旅行は?」


「日帰りで」


 理由は言わない。

 理由を聞く前に、話題を変える。


 それが、いつの間にか三人の暗黙の了解になっていた。



 カフェで休憩していた時のこと。


 澪は、マグカップを両手で包むように持っていた。


「熱い?」


「いいえ」


 そう言いながら、

 指先がわずかに震えているのが見えた。


 俺は、何も言わなかった。


 言ってしまえば、

 何かが壊れる気がしたから。


 代わりに、紗良が言った。


「澪、今日は早めに帰ろ」


「……うん」


 澪は素直にうなずいた。


 その素直さが、

 なぜか胸に引っかかった。


 帰り道。


 夕暮れの歩道を、三人で歩く。


 澪の歩幅は、少しずつ小さくなっていた。


 俺が合わせると、

 紗良は、さらに一歩前に出る。


 前と後ろ。

 挟むような位置。


 守っている、というより――

 支えている。


 その事実に、

 俺は気づいてしまった。


「朝比奈くん」


 別れ際、澪が呼ぶ。


「なに」


「……最近、楽しいです」


 それは、突然だった。


「前より」


 付け足すように言う。


「だから、その……」


 言葉を探して、

 澪は少し視線を落とした。


「出来ないことが増えても、

 嫌いにならないでくださいね」


 冗談みたいな口調だった。


 でも、俺は笑えなかった。


「そんなこと、あるわけないだろ」


 澪は、ほっとしたように笑った。


 その笑顔が、

 どこか「確認」みたいに見えた。


 その夜、俺はふと思い出す。


 やりたいことリストの、最後の一行。


・誰かと、ちゃんと約束をする


 あれは、

 「何かをする約束」じゃない。


 出来なくなっても、

 そばにいるという約束だったんじゃないか。


 そう思った瞬間、

 胸の奥が、静かに痛んだ。

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