︎【第3章:三人になる日】

澪が「親友を連れてきたい」と言った日から、数日後。


 俺は駅前のカフェで、少し早めに待っていた。

 カップの中のコーヒーは、もう半分も残っていない。


 落ち着かないのは、理由がはっきりしていた。


 ――彼女の「親友」。


 澪の話の端々に出てくる存在。

 いつも名前は出ないのに、

 まるで影のように、すぐそばにいる人。


 ガラス越しに人の流れを見ていると、

 澪がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。


 その隣に、もう一人。


 澪より少し背が高く、

 長く整えた髪。

 歩き方が迷いなくて、視線が真っ直ぐ。


 彼女は、澪の半歩後ろを歩いていた。


「朝比奈くん」


 澪が先に気づいて、手を振る。


「ごめんなさい、待ちました?」


「いや、今来たところ」


 本当は十分以上前からいたけど、そう言った。


 澪は、少しだけ深呼吸してから、隣の女の子を見る。


「紹介します。

 私の親友の――」


「秋月(あきづき) 紗良(さら)です」


 澪が言い切る前に、彼女はそう言った。

 はっきりした声だった。


「あ、どうも……朝比奈です」


 差し出された手を、少し遅れて握る。


 紗良の手は、澪よりずっと温かかった。


「急にすみません。

 でも、どうしても一度、お会いしたくて」


 その言い方が、妙に引っかかる。


「いえ、こちらこそ」


 視線を澪に戻すと、

 彼女は二人の間に立って、少し照れたように笑った。


「今日は……三人で、出かけようと思って」


「聞いてます」


 紗良は即答した。


「澪の“やりたいこと”、ですよね」


 俺は、思わず澪を見る。


 澪は、目を逸らした。


「……言ったの?」


「言わないと、怒られるから」


「怒ってないです」


 紗良はそう言いながらも、

 澪の頭に軽く手を置いた。


 その仕草が、あまりにも自然で、

 二人の長い時間を物語っていた。



 最初に向かったのは、水族館だった。


 澪が「海は見たけど、生きてるのも見たい」と言ったからだ。


 館内は少し暗く、

 水槽の青い光が、三人の影を床に落とす。


「すご……」


 澪は、水槽に顔を近づけて、子どもみたいに声を漏らした。


「こんなに近くで見るの、初めて」


「だから言ったでしょ。

 写真より、ずっといいって」


 紗良は、澪の隣に立ちながら言った。


「朝比奈さんは、水族館好きですか」


 突然話を振られて、少し驚く。


「嫌いじゃないですけど……

 こうして来るのは久しぶりですね」


「ですよね。

 だいたい一人では来ない場所ですし」


 その言葉に、少しだけ棘を感じた。


 でも、紗良の表情は柔らかい。


「澪、あっちのクラゲ見たい」


「行きたい」


 二人は並んで歩き出す。


 俺は、少し後ろからその背中を見ていた。


 紗良は、澪の歩く速度に、自然と合わせている。

 早すぎず、遅すぎず。


 まるで――

 そうすることに慣れているみたいに。


 ベンチに座って休憩していると、

 澪が少しだけ息を整えているのが見えた。


「大丈夫?」


 声をかけると、澪はうなずいた。


「ちょっと、歩きすぎただけです」


「無理しないで」


 その言葉に、紗良がちらりと俺を見る。


「……澪、トイレ行く?」


「うん」


 澪が席を立つ。


 残されたのは、俺と紗良だけだった。


 水槽の光が、静かに揺れている。


「朝比奈さん」


 紗良が、低い声で言った。


「率直に聞いてもいいですか」


「……どうぞ」


「澪のこと、どこまで知ってます?」


 胸が、はっきりと鳴った。


「……まだ、あまり」


「ですよね」


 紗良は、少しだけ視線を落とした。


「澪は、自分のことを話すのが苦手なんです。

 特に、大事なことほど」


 俺は、何も言えなかった。


「でも」


 紗良は続ける。


「あなたといる時の澪は、

 前より、ずっと楽しそうです」


 それは、責める言葉じゃなかった。


「だから、感謝もしています」


 でも、次の一言で、空気が変わる。


「その代わり――

 中途半端な気持ちなら、近づかないでください」


 はっきりとした目だった。


「澪は、時間を無駄に出来ない」


 その意味を、俺はようやく理解し始めていた。


「……俺は」


 言葉を探す。


「守れるとは、言えません」


 紗良は、少しだけ驚いた顔をした。


「でも」


 俺は続けた。


「一緒にいる時間を、

 軽いものにはしたくない」


 沈黙。


 やがて、紗良は小さく息を吐いた。


「……それなら、いいです」


 ちょうどその時、澪が戻ってきた。


「二人で、何話してたんですか」


「内緒」


 紗良はそう言って笑った。


 澪は、不満そうに頬を膨らませる。


「ずるい」


 その仕草が、少し幼くて、

 胸がきゅっとした。



 帰り道。


 三人で並んで歩きながら、

 澪は今日の出来事を一つ一つ振り返っていた。


「クラゲ、綺麗だった」


「光ってたね」


「今度は、夜の水族館も行きたいです」


「それ、リストに書きな」


 紗良がそう言うと、

 澪は嬉しそうにうなずいた。


 駅に着く頃、

 澪の歩幅は少し小さくなっていた。


 それに気づいたのは、紗良だった。


「今日は、ここまでにしよ」


「……うん」


 澪は素直に答えた。


 別れ際、澪は俺を見る。


「朝比奈くん」


「なに」


「今日は……ありがとう」


 その言葉の重さを、

 俺はまだ全部、受け止めきれていなかった。


 でも一つだけ、はっきりしていた。


 澪の時間は、

 もう俺一人のものじゃない。


 そして――

 この三人で過ごす時間が、

 やがて「別れ」を際立たせることも。

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