第5話
第5章:二人だけの秘密、あるいは共犯者の距離感
人間には、三つの顔があるという。
一つ目は、世間に見せる顔。
二つ目は、家族や親しい友人に見せる顔。
そして三つ目は、誰にも見せず、自分一人だけの時に見せる顔。
……なんて格言じみたことを、昼休みの喧騒に包まれた教室の片隅で、私はぼんやりと考えていた。
私の手元には、コンビニのおにぎりと、英単語帳。
周囲では「ねえ、昨日のドラマ見た?」「次の体育、移動めんどくさーい」といった、平和で中身のない会話が繰り広げられている。
私は、相田愛花。
クラスにおける立ち位置は『真面目でおとなしい図書委員』。
休み時間に一人で単語帳を開いていても、「ああ、相田さん勉強熱心だね」で済まされる、便利なモブキャラだ。
だが、今の私の脳内は、英単語の暗記などこれっぽっちもできていなかった。
脳裏を支配しているのは、昨日の放課後。
私の部屋で行われた、秘密の特訓の記憶だ。
『ねえ、先輩。今のマシロ、可愛かった?』
……思い出して、自分の手で顔を覆う。
熱い。物理的に顔が熱い。
あの一瞬の破壊力は、核兵器に匹敵した。
普段は無愛想なイケメンが、私の指導によって「究極のあざとさ」を身につけ、それを私に向けて試し撃ちしてきたのだ。
被弾した私のHPは、一晩経っても回復していなかった。
「……はぁ」
溜息をつき、おにぎりを齧る。
そして、何気なく廊下の方へ視線を向けた時だった。
教室の空気が、ピリッと変わった。
女子たちのざわめきが、一瞬止まり、次の瞬間には別の種類の――もっと粘着質で、熱を帯びたざわめきへと変わる。
「あ、見て。如月くんだ」
「うわ、今日も顔が良い……」
「移動教室かな? こっち見てくんないかな」
廊下を歩く、一人の男子生徒。
如月結人。
彼が通るだけで、廊下はさながらモーゼが割った紅海のように道ができる。
すれ違う女子生徒たちは皆、彼に見惚れ、あるいは恥じらって視線を伏せる。
男子生徒たちですら、「あいつは住む世界が違うからな……」と諦め混じりの敬意を払っている。
完璧な制服の着こなし。
涼やかな目元。
誰とも群れず、冷ややかなオーラを纏って歩くその姿は、まさしく『氷の貴公子』。
(……すごいなぁ)
私は他人事のように感心した。
昨日、私の部屋で「マシロの挨拶」を必死に練習し、鏡の前で笑顔の角度を調整していた人物と同一人物だとは、到底思えない。
今の彼は、完璧に「如月結人」を演じている。
(でも、私は知ってる)
心の中で、ふつふつと奇妙な感情が湧き上がってくる。
優越感、と言っていいのだろうか。
みんなが見ているあのクールな彼は、本当はピンク色が大好きで。
可愛いものが大好きで。
昨日の夜も、LINEで『先輩、明日の特訓の予習しておきました!』と、自撮りのあざといポーズ写真(※顔はイケメン)を送ってくるような、健気で可愛い男の子なのだ。
世界の誰も知らない、彼の「三つ目の顔」。
それを知っているのは、この広い世界で私一人だけ。
「…………」
廊下を歩く如月くんの視線が、ふと、教室の中に向けられた気がした。
一瞬。本当にコンマ一秒。
私と目が合った、ような気がする。
だが、彼はすぐに前を向き、何事もなかったかのように通り過ぎていった。
無反応。完全なる他人行儀。
それが、私たちが交わした約束だ。
『学校では、接触を避けること。噂になると、マシロの活動に支障が出るから』
完璧だ。
プロ意識が高い。
私は小さく頷き、再び英単語帳に視線を落とした。
これでいい。私たちは、放課後だけの共犯者。
学校という檻の中では、決して交わらない平行線なのだ。
――そう、思っていたのに。
◇
事件が起きたのは、五時限目と六時限目の間の休み時間だった。
私は次の授業の移動のため、教科書を抱えて廊下を歩いていた。
多くの生徒が行き交う、本館と別館を繋ぐ渡り廊下。
午後の日差しが差し込む窓際の通路は、人口密度が高い。
「あー、マジだるいー」
「次のテストやばくね?」
そんな日常会話のノイズの中を、モブとして縮こまって歩いていた私の前方から、またしても「あの空気」が近づいてきた。
人波が割れる。
現れたのは、如月結人だ。
どうやら彼も移動教室らしく、数冊のノートを小脇に抱え、一人で歩いてくる。
(うげっ、鉢合わせ……)
私は反射的に身を固くした。
廊下の幅はそれなりにあるが、人が多いのですれ違う距離は近い。
心臓がドクンと跳ねる。
向こうは私に気づいているだろうか?
いや、気づいていても無視だ。それが鉄則だ。
私は壁際のプランターになりきって、気配を消そうと努めた。
彼は、まっすぐに歩いてくる。
その視線は前方の一点を見据え、周囲の女子たちの視線など意に介していない様子だ。
美しい。
悔しいけれど、歩いているだけで絵画になる。
美術の教科書に載せるべきだ。「歩く彫刻」として。
(よし、このまま通り過ぎるだけ……)
距離が縮まる。
5メートル。
3メートル。
1メートル。
周囲の女子たちが、「きゃー、如月くん近いっ」「いい匂いする!」と小声で騒いでいるのが聞こえる。
私は俯き、視線を床のタイルに固定して、彼とすれ違おうとした。
その時だ。
彼と肩が並んだ、その一瞬。
彼が歩く速度を、ほんのわずかに――周囲には気づかれないレベルで、緩めたのを感じた。
ふわり、と。
清潔な石鹸の香りと、微かなシトラスの香りが、私の鼻腔を掠める。
そして。
「――先輩」
耳元で。
本当に、私の耳の産毛が震えるほどの至近距離で。
吐息交じりの、とろけるような低音が響いた。
「…………っ!?」
私は思わず足を止めそうになったが、なんとか堪えた。
彼は止まらない。前を向いたまま、すれ違いざまに、唇も動かさず、腹話術のように、私にだけ聞こえる音量で囁き続けた。
「今日の放課後も、待ってますから」
ゾクリ。
背筋に、得体の知れない電流が駆け抜けた。
それは、昨日の特訓で私が教えた「マシロちゃんのウィスパーボイス」の技術。
でも、声色は完全に「男」のそれだ。
如月結人の地声特有の、磁気を帯びたような低い響きが、鼓膜を直接愛撫するように滑り込んでくる。
彼はそのまま、何事もなかったかのように歩き去っていった。
私の横を通り過ぎる時、彼のノートの端が、私の腕にコツンと軽く当たった感触だけを残して。
「…………」
私は立ち尽くした。
抱えていた教科書を取り落としそうになるのを、必死の力で抱きしめる。
今の、何?
幻聴?
いや、違う。確かに聞こえた。
「待ってますから」。
その言葉の余韻が、脳内でリフレインして消えない。
待ってる?
放課後を?
私との時間を?
あの「氷の貴公子」が?
顔が、熱い。
心臓が、肋骨を叩き折らんばかりに暴れている。
これは反則だ。不意打ちはルール違反だ。
ただでさえ彼は顔が良いのだ。その顔面兵器が、至近距離で、私だけに特別な言葉を囁くなんて、それはもうテロリズムだ。
しかし、私のパニックをよそに、周囲の世界は別の意味でパニックになっていた。
「えっ? 今、如月くん、何か喋らなかった?」
「嘘? 独り言?」
「いや、なんか……誰かに挨拶したっぽくなかった?」
「えー、誰に!? この辺にいたのって……」
周囲の女子たちがキョロキョロと辺りを見回す。
やばい。
私は瞬時に「壁」の擬態を強化した。
私は石ころ。私は空気。私はただ通りすがっただけの、地味な三年生。
「気のせいじゃない? 如月くんが女子に話しかけるわけないし」
「だよねー。あの人が他人に興味持つとか、天地がひっくり返ってもないわ」
「でも、今の横顔、なんか一瞬だけ優しかったような……」
女子たちの捜索は、幸いにも私には及ばなかった。
彼女たちの認識の中で、如月結人と相田愛花という二人の人間は、あまりにも住む世界が違いすぎて、リンクしないのだ。
私が彼と会話するなど、宇宙人が総理大臣と茶を飲むくらいありえないことなのだ。
その事実に、私は安堵した。
――はずだった。
けれど、胸の奥底で燻るこの感情は、なんだろう。
(……ふふっ)
こみ上げてくる笑いを、私は口元を手で覆って必死に殺した。
みんな、知らないんだ。
あの如月くんが、さっき私にだけ声をかけたことを。
みんなが「興味ない」と思っている彼の心のベクトルが、今、私の方に向いていることを。
天地がひっくり返ってもない?
残念でした。もうひっくり返ってるのよ。
貴方たちが遠巻きに見つめるだけの「王子様」はね、今日の放課後、私の部屋で、「もっと可愛くしてくださいっ!」って涙目で私に教えを請う予定なの。
優越感。
圧倒的な優越感だ。
そして同時に、いけないことをしているという背徳感。
まるで、王国の秘宝をポケットに隠して、衛兵の前を素知らぬ顔で通り過ぎるようなスリル。
「……バカな後輩」
私は小さく呟いた。
その言葉は、熱を帯びて震えていた。
彼は、わかってやっているのだろうか。
あんな風に囁かれたら、私が意識してしまうことを。
いや、昨日の様子を見る限り、十中八九、天然だ。
「先輩に挨拶しなきゃ!」という子犬のような忠誠心が、たまたま「イケメンのウィスパーボイス」という凶器となって発露したに過ぎない。
でも、それが一番タチが悪い。
無自覚な誘惑ほど、防ぎようのないものはないからだ。
私は深呼吸をして、火照った頬を教科書の冷たい表紙で冷やした。
早く、放課後になればいい。
自分でも驚くほど、そう願ってしまっている自分がいた。
◇
そして、運命の放課後。
チャイムが鳴ると同時に、私は逃げるように教室を出た。
掃除当番じゃない日でよかった。ホームルームも短くてよかった。
すべてが、私と彼の時間を後押ししているようだ(ポジティブな勘違い)。
待ち合わせは、昨日と同じ旧校舎裏。
しかし今日は、昨日とは違う緊張感があった。
私が到着すると、彼はもうそこにいた。
まだ誰もいない薄暗い裏庭で、彼はスマホをいじりながら待っていた。
私に気づくと、パッと顔を上げ、駆け寄ってくる。
「先輩! お疲れ様です!」
「……お疲れ、如月くん」
「あの、今日の昼休み、すみませんでした。どうしても一言、先輩に挨拶したくて」
彼は申し訳なさそうに眉を下げた。
「周りにバレないように、小声にしたつもりだったんですけど……聞こえましたか?」
「……聞こえすぎよ。鼓膜が溶けるかと思ったわ」
「えっ、溶ける!? もしかして僕、声量間違えましたか!?」
「違う、そうじゃない……はぁ、もういいわ」
この天然記念物を相手に、まともにときめきのメカニズムを説いても無駄だ。
私は頭を切り替えた。
「それより、今日は何の特訓するの?」
「はい! 今日はですね……」
彼はカバンから、一冊のファッション誌を取り出した。
10代の女の子向けの、パステルカラー全開の雑誌だ。
「マシロの新衣装の参考に、トレンドを勉強したくて。でも、男の僕一人で選んでも、センスが古臭くなる気がして……。先輩に『女の子視点』でアドバイスが欲しいんです」
「なるほどね。衣装選びか……重要ね」
「ですよね! 先輩なら、今のマシロに何が似合うと思いますか?」
彼はキラキラした瞳で私を見つめ、少し体を寄せてきた。
近い。
またしても物理的距離が近い。
この男、パーソナルスペースという概念を母親のお腹の中に忘れてきたのだろうか。
「そ、そうね……。とりあえず、家に行きましょう。ここで雑誌広げてたら怪しまれるわ」
「はい! あ、先輩の家に行く前に、コンビニ寄ってもいいですか? お礼に新作のスイーツ買います!」
「……アンタね、そうやって餌付けすれば私が喜ぶと思ったら大間違いよ」
「えっ、あ、違います! 僕が食べたいんです! 一人で買うの恥ずかしいから、先輩についてきてほしくて……」
彼は顔を赤くしてモジモジした。
スイーツ男子。
ギャップ萌えのバーゲンセールか。
「……仕方ないわね。付き合ってあげるわよ」
「ありがとうございます! 先輩大好きです!」
屈託のない笑顔で言われた「大好き」という言葉。
もちろん、それは「協力者として」とか「友達として」という意味だ。わかっている。
わかっているのに、私の心臓はまたしても不整脈を起こした。
(……チョロい。私、チョロすぎる)
私は心の中で自分を罵倒しながら、先を歩く彼の背中を見つめた。
夕日に照らされたその背中は、広くて、頼もしくて、やっぱり男の子で。
この先、この関係が深まれば深まるほど、私は彼に惹かれていってしまうだろう。
それは「推し」への愛なのか、それとも「恋」なのか。
今の私にはまだ、判断がつかなかった。
ただ一つ確かなことは。
――この共犯関係が、今の私にとって、何よりも刺激的で、甘美な毒になっているということだけだ。
「先輩? 早く行きましょう!」
彼が振り返り、手を振る。
私は溜息を一つついて、その毒に自ら足を踏み入れるように、駆け出した。
(第5章 完)
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