第4話
第4章:秘密の放課後レッスン、開始します!
翌日の月曜日。
私の世界は、昨日までとは少しだけ――いや、劇的に変わってしまっていた。
教室の空気はいつも通り澱んでいるし、黒板の前の数学教師は相変わらず呪文のような数式を唱えている。私の偏差値は依然として深海を漂っているし、クラスのカーストも変動はない。
けれど。
(……いるんだよなぁ。この校舎のどこかに)
私はシャーペンを回しながら、ふと窓の外を見た。
この同じ敷地内の、一年生の教室のどこかに、彼がいる。
如月結人。
全校生徒が憧れる『氷の貴公子』であり、そして私の最推しVtuber『白雪マシロ』の中の人。
昨日のカフェでの出来事は、夢ではなかった。
証拠に、私のスマホには『結人(マシロ)』という名前でLINEが登録されている。
アイコンは、真っ白な雪の結晶。
昨夜、解散した後に届いた『今日はありがとうございました。明日、改めて今後のことを相談させてください』というメッセージを、私はもう五十回は見返していた。
相談。
そう、私たちは「契約」をしたのだ。
私が彼の「可愛さ」をプロデュースし、彼が私の「受験」をサポートする。
利害の一致した共犯関係。
……字面だけ見ればビジネスライクだが、実態は「推しの人生にガッツリ介入する」という、オタクとしてはあるまじき越権行為である。
キーンコーンカーンコーン……。
放課後を告げるチャイムが鳴った瞬間、私は教科書をカバンにねじ込み、席を立った。
図書委員の当番はない。バイトも休みだ。
向かう先は、昇降口。
心臓が早鐘を打つ。
周囲の喧騒が遠のく。
待ち合わせ場所は、人の目につかない旧校舎裏のベンチだ。
まるで秘密の逢瀬を楽しむカップルのようだが、私たちが行うのは甘いデートではない。
作戦会議だ。
◇
旧校舎の裏手は、鬱蒼とした木々に囲まれ、滅多に生徒が寄り付かないスポットだ。
私が到着すると、そこには既に先客がいた。
夕日を背に受けて、文庫本を読んでいる男子生徒。
長い脚を組み、憂いを帯びた瞳で活字を追う姿は、それだけで映画のワンシーンのようだ。
風が吹き、さらりとした黒髪が揺れる。
絵になる。腹が立つほど絵になる。
「……お待たせ、如月くん」
私が声をかけると、彼は弾かれたように顔を上げ、本を閉じた。
そして、パッと表情を明るくし、立ち上がる。
「相田先輩! お疲れ様です!」
その笑顔の輝きで、周囲の木々の光合成が加速しそうなほどだ。
昨日の「氷の貴公子」の面影はどこにもない。そこにあるのは、飼い主に尻尾を振る大型犬のオーラだった。
「声でかい。あと顔が良い。目立つからオーラ消して」
「あ、すみません……。先輩に会えたのが嬉しくて、つい」
「……」
ナチュラルに心臓に悪いことを言う。
私は咳払いをして、周囲を警戒した。幸い、誰もいない。
「で、今後のことなんだけど」
「はい。僕、考えたんです」
如月結人は、カバンから一冊のノートを取り出した。
表紙には『マシロ強化計画』と、可愛らしい丸文字(努力の跡が見える)で書かれている。
「マシロの課題は、やはり『中身のオジサン化』……いえ、『男成分の露呈』にあると思います。とっさのリアクションや、言葉の端々に、どうしても僕の地が出てしまう」
「まあね。昨日の『気持ち悪いですよね』っていうネガティブ発言も、マシロちゃんらしくなかったし」
「うっ……反省してます」
彼はシュンと耳を垂れる(幻覚)。
「そこで、先輩には徹底的に、僕の『言動』と『仕草』を矯正していただきたいんです。配信中だけでなく、日常から『可愛い』を意識しないと、本番でボロが出るので」
「なるほど。メソッド演技法ってわけね」
「はい。……その代わりと言ってはなんですが」
彼は真剣な眼差しで、私を見据えた。
「先輩の志望校、K大学の文学部ですよね? 今の先輩の偏差値だと、合格率は20%以下です」
「ぐっ……なんで知ってるのよ」
「調べました。……僕が責任を持って、先輩を合格させます。僕、教えるのは得意なので」
自信満々に言うだけあって、彼は学年トップの成績優秀者だ。
顔が良くて頭も良い。天は二物を与えすぎだ。いや、彼の場合、その二物が重すぎて「可愛さ」という三物目を手に入れられないのだから、プラマイゼロなのかもしれない。
「わかったわ。取引成立ね」
「はい! よろしくお願いします、師匠(プロデューサー)!」
「じゃあ早速だけど、場所を移しましょうか。ここは蚊も多いし、誰に見られるかわからないし」
私がそう言うと、彼は「あ、はい」と頷き、少し頬を染めた。
「あの……場所って、どこですか? ファミレスとか?」
「バカ言わないで。ファミレスでイケメン男子が『もっとあざとく!』とか指導されてたら通報案件よ」
「た、確かに」
「だから……その」
私は言い淀んだ。
これを提案するのは、女子として、そして何より「隠れオタク」として、非常にリスクが高い。
だが、背に腹は代えられない。
最高の環境で推しを育てるためだ。
「……私の、家に来なさい」
「えっ」
「私の部屋。あそこなら防音もしっかりしてるし、配信機材も……まあ、ある程度は揃ってるから。実戦形式で練習できるわ」
如月結人は、目を丸くして固まった。
そして次の瞬間、彼の顔がボッ! と音を立てて沸騰した。
「せ、先輩の……お部屋……!?」
「変な想像しないでよね! あくまでレッスンのためだから! やましいことは一切ないから!」
「も、もちろんです! 僕なんかが先輩の聖域(サンクチュアリ)にお邪魔するなんて、恐れ多いというか、土足で上がっていいのかというか……!」
「土足はダメに決まってるでしょ、日本の家屋よ」
動揺する彼を急かし、私たちは校門を出た。
並んで歩くと目立つので、あえて距離を開けて歩く。
……放課後、イケメン後輩を自宅に連れ込む。
ラノベのタイトルみたいな状況だが、私の胃はキリキリと痛んでいた。
なぜなら、私の部屋は「アレ」だからだ。
◇
「お邪魔します……」
玄関で靴を揃える如月結人の所作は、育ちの良さを隠せていなかった。
母はパートで不在。父はまだ会社だ。家には私たち二人だけ。
変な緊張感が走るが、私は勢いで自分の部屋のドアを開けた。
「さ、入って。……引かないでよ?」
ガチャリ。
ドアが開くと同時に、視界に飛び込んでくるのは「白」と「ピンク」の洪水。
壁一面に貼られた『白雪マシロ』のタペストリー。
棚にびっしりと並べられたアクリルスタンド、フィギュア、缶バッジ。
ベッドの上には抱き枕カバー(健全版)。
天井からは、自作のマシロちゃんモビールが吊るされている。
そこは、部屋というより「祭壇」だった。
私の高校生活のすべてとお金を注ぎ込んだ、狂気と愛の結晶。
「…………」
如月結人は、部屋に入った瞬間、息を呑んで立ち尽くした。
終わった。
これは引かれた。
自分の推しキャラで部屋が埋め尽くされている光景を、本人(中身)に見られる羞恥プレイ。
私は顔から火が出る思いで、言い訳を口にしようとした。
「あの、これはその、一種の魔除けというか……」
「……すごい」
遮ったのは、震える彼の声だった。
恐る恐る顔を覗き込むと、彼の瞳はキラキラと輝き、感動に打ち震えていた。
「これ、初期の限定タペストリーですよね? こっちは、去年の冬コミのセット……。あ、この手作りの団扇、配信で見たことあります!」
彼は宝物庫に入った冒険者のように、一つ一つのグッズを愛おしそうに見つめた。
「先輩、こんなに……こんなに大切にしてくれてたんですね」
「う……まあ、推しだから」
「嬉しいです。自分の分身が、こんなに愛されているなんて」
彼はタペストリーのマシロちゃんに向かって、深々と一礼した。
シュールだ。
自分の絵に頭を下げるイケメン。
でも、その表情があまりに聖母のように穏やかで、私は「キモい」と言うタイミングを逃した。
「さ、感動してないで座って! 始めるわよ!」
「はい!」
私は彼を勉強机の椅子(マシロちゃんのクッション付き)に座らせ、自分はベッドの縁に腰掛けた。
いよいよ、第一回『マシロちゃん強化合宿』の開始だ。
「まずは基本中の基本、『挨拶』からよ」
「挨拶、ですか」
「そう。アンタの挨拶は、まだ『男』が残ってる。特に語尾の処理が雑」
私はスマホで、過去の彼の配信アーカイブを再生した。
『こんマシロー!』という明るい声。一見完璧だが、私にはわかる。
「聞いて。この『ろー』の最後、微妙に音が下がってるでしょ? これは無意識に喉を緩めてる証拠よ。男の骨格が、楽な低音に戻ろうとしてるの」
「っ……! 言われてみれば……」
「アイドルたるもの、語尾の1ミリ秒まで気を抜くな。語尾は上げる! そして消え入るように吐息を混ぜる! それが『守りたくなる』余韻を作るの!」
私は立ち上がり、熱弁を振るった。
「やってみて」
「は、はい」
如月結人は姿勢を正し、深呼吸をした。
そして、イケメンボイス(地声)で言った。
「こんマシロー」
「ブッブー! 硬い! 部活の挨拶か!」
「す、すみません!」
「もっと、こう……自分は綿菓子だと思いなさい。ふわふわの、甘い綿菓子。口に入れたら溶けちゃうような儚さをイメージして!」
「綿菓子……綿菓子……」
彼は真剣な顔でブツブツと自己暗示をかけている。
端から見れば奇行だが、その眼差しは真剣そのものだ。
「こんマシロー……?」
「違う! 疑問形にならない! あと顔! 顔が怖いのよ!」
私は彼に手鏡を持たせた。
鏡に映っているのは、眉間に皺を寄せた、殺し屋のようなイケメンだ。
「アンタ、必死になるとすぐ眉間に力が入る癖があるわね。それじゃリスナーに圧がかかるの。ボイチェン越しでも、表情筋の動きは声に乗るんだから」
「表情筋……」
「広角を上げて。目は三日月にするイメージ。はい、笑って!」
彼はぎこちなく口角を引き上げた。
……引きつっている。
不気味な笑みを浮かべる美少年。ホラー映画のポスターなら採用だが、妹系Vtuberとしては落第だ。
「だーかーらー! もっと自然に!」
私は痺れを切らし、彼に近づいた。
椅子の背もたれに手をかけ、彼の顔を覗き込む。
「ここ! 頬の筋肉が固いの!」
私は両手で、彼の頬をむにゅっと挟んだ。
温かい。そして肌が驚くほど滑らかだ。
思わず指先が跳ねる。
「あ……」
如月結人が、目を丸くして私を見た。
至近距離。
整いすぎた目鼻立ちが、視界いっぱいに広がる。
長い睫毛の一本一本まで数えられそうだ。
彼は私の手に触れられたまま、されるがままになっている。
「せ、先輩……手が、柔らかいです」
「っ! 喋るな!」
私は慌てて手を離した。
心臓がドカンと跳ねた。
なんだ今の。なんで私がドキドキしてるんだ。これは指導だ。マッサージだ。整体師が患者に触れるのと同じだ。邪念を持つな。
「……と、とにかく! リラックスして、自分が『世界一可愛い』と信じ込むことが大事なの!」
「世界一……」
「そうよ。アンタは白雪マシロ。五万人が恋する美少女。自信を持ちなさい」
彼は鏡の中の自分を見つめた。
そして、ゆっくりと息を吐き出し、目を閉じた。
数秒後。
彼が目を開けた時、そこの空気の色が変わった。
彼はゆっくりと首を傾げた。
計算された角度。顎を引き、少し上目遣いになる、黄金比の角度。
そして、ふわりと花が綻ぶように、柔らかく微笑んだ。
「――ねえ、先輩。今のマシロ、可愛かった?」
ズキュゥゥゥゥン!!!
私の胸の奥で、何かが撃ち抜かれる音がした。
声は低い。地声だ。
姿も男だ。制服だ。
なのに。
今の一瞬、私には彼が、Live2Dのマシロちゃんに見えた。
いや、マシロちゃん以上に、生々しい「あざとさ」と「色気」を纏った、とんでもない魔性に見えた。
「っ……!」
私は思わず後ずさりし、ベッドに尻餅をついた。
顔が熱い。耳まで熱い。
これはダメだ。これは劇薬だ。
「……どうですか? 今のイメージで合ってますか?」
彼は素の表情に戻り、キョトンとして聞いてくる。
自分が今、核兵器級の「可愛さ攻撃」を放った自覚がないのだ。
「ご、合格……! 今の、今の感じよ! それを忘れないで!」
「本当ですか! やった!」
彼は無邪気にガッツポーズをした。
その仕草すら、さっきより洗練されて見える。
こいつ、吸収が早い。早すぎる。
元々持っていたポテンシャル(顔の良さ)に、正しい「可愛さの理論」が組み込まれた瞬間、彼は無敵のアイドルに化けるのだ。
(……やばい。私が育てた怪物が、私を食い殺すかもしれない)
私は冷や汗を拭った。
「よし、じゃあ次は……仕草の特訓よ。指先の動き一つで、印象は変わるから」
「はいっ! ご指導お願いします、師匠!」
◇
一時間の地獄のような(そして眼福の)特訓が終わった頃には、私は疲労困憊していた。
推しの至近距離でのファンサを浴び続け、精神力が削り取られたのだ。
「先輩、大丈夫ですか? 顔が赤いですけど」
「誰のせいだと……。大丈夫、ちょっと糖分が不足しただけ」
「じゃあ、休憩しましょう。……次は、僕の番ですね」
如月結人は、空気が切り替わったように眼鏡を取り出し、かけた。
銀縁の、知的な眼鏡。
……はい、かっこいい。知ってた。眼鏡属性まで完備とか、どこの乙女ゲーの攻略対象だよ。
「約束通り、勉強を見ます。先輩の苦手な英語から潰していきましょう」
「うっ……お手柔らかに」
「ダメです。マシロが妥協しないように、僕も先輩の勉強には妥協しません」
彼は私の参考書を開き、パラパラと確認した。
そして、私の隣――勉強机に椅子を二つ並べて、座った。
近い。肩が触れそうだ。
「ここ、現在完了形の使い方、間違ってますね。中学レベルですよ」
「うぐっ」
「でも、単語の暗記量は悪くない。基礎はあるので、あとは論理的な組み立て方を覚えれば伸びます」
彼の指導は的確で、わかりやすかった。
普段の授業では右から左へ抜けていく文法事項が、彼の低い声で説明されると、不思議と脳に定着する。
「イケボ学習法」とか名付けて売り出せば儲かるんじゃないだろうか。
「……先輩、集中してますか?」
「へ? し、してるわよ!」
「手が止まってます。……僕の顔見てましたよね?」
ギクリ。
バレていた。眼鏡越しの冷ややかな視線が突き刺さる。
「み、見てない! 眼鏡が珍しいなって思っただけ!」
「……そうですか」
彼はふっ、と短く息を吐き、ペン先で私のノートをトントンと叩いた。
そして、顔を近づけてきた。
耳元に、彼の唇が寄る。
「よそ見しないでください。……僕だけ見てればいいじゃないですか」
囁き声。
それは、さっき練習した「あざとい」声ではなく、もっと低く、独占欲を孕んだ「男」の声だった。
「ひゃっ!?」
私は奇声を上げて飛び退いた。
心臓が爆発する。
「な、ななな何今の!?」
「え? あ、すみません。今の、マシロの『ヤンデレボイス』の練習で使えそうかなって、つい」
彼はキョトンとしている。
天然か。天然なのか。
それとも計算なのか。
「し、心臓に悪いから禁止! 勉強中は勉強に集中する!」
「はい。すみません」
彼は素直に謝り、また参考書に向き直った。
私は荒い息を整えながら、彼に聞こえないように呟いた。
「……反則よ、バカ」
放課後の、密室のレッスン。
これは、マシロちゃんを育てるための時間だ。
それなのに、育てられているのは彼ではなく、私の中にある「如月結人への感情」のような気がしてならない。
可愛くなりたいと願う彼と、そんな彼に翻弄される私。
秘密の共犯関係は、まだ始まったばかりだ。
そして私はまだ知らない。
このレッスンが回を重ねるごとに、彼が吸収した「可愛さ」が、凶悪な武器となって私自身に跳ね返ってくる未来を。
(第4章 完)
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