第2話
第2章:待ち合わせ場所の「氷の貴公子」
日曜日。決戦の朝。
私は、クローゼットの中身をすべて床にぶちまけ、頭を抱えていた。
「……着ていく服が、ない」
いや、物理的にはある。制服もあるし、ジャージもあるし、親が買ってきた「いつ着るんだこれ」という謎の英字プリントTシャツもある。
だが、今の私に必要なのは、そういう「布」ではない。
推し(神)との対面に相応しい、礼節と可愛げと、それでいて「私はあくまでモブです」という謙虚さを兼ね備えた、概念武装としての「服」がないのだ。
相手はVtuber『白雪マシロ』。
画面の向こうの彼女は、いつだって完璧に可愛い。あざといフリルのついた衣装、ふわふわの髪、計算された色彩設計。二次元の美を体現した存在だ。
対して私は、三次元の、しかも受験ストレスで肌荒れ気味の、ただのオタク女子高生。
並ぶこと自体が冒涜だ。宗教画の隣に、落書きを並べるようなものだ。
「……いや、落ち着け相田愛花。お前は見られる側じゃない。見る側だ」
鏡の前で自分に言い聞かせる。
マシロちゃんは私に会いたいと言ってくれた。
それは「ファンミーティング」であって「お見合い」ではない。私が可愛くある必要はないのだ。むしろ、私が変に色気付いていく方が解釈違いだろう。
結局、私は無難なベージュのニットと、ロングスカートを選んだ。
髪は丁寧に櫛を通し、普段はサボっているヘアオイルもつけた。メイクは……やり方がわからないので、リップクリームを塗るだけにとどめる。
精一杯の、人間としての身だしなみ。
これなら、マシロちゃんの視界に入っても、ギリギリ「背景」として処理されるはずだ。
スマホを見る。
待ち合わせは十時。場所は駅前のカフェ『ブラン』。
心臓が、肋骨を突き破りそうなほど暴れている。
深呼吸を一つ。
推しに会う。その事実だけで、世界が輝いて見えた。
◇
駅前のカフェ『ブラン』は、レンガ造りの外観がお洒落な、地元でも人気の店だ。
休日の朝ということもあり、店内は適度に混み合っていた。
焙煎されたコーヒーの香ばしい匂いと、焼き立てのパンケーキの甘い香り。
お洒落なジャズが流れる空間は、普段の私の生息域(図書室か自室)とはあまりにかけ離れている。
カランコロン、とドアベルを鳴らして入店する。
途端に、緊張で胃がねじ切れそうになった。
視線を泳がせる。
マシロちゃんはどこだ?
いや、そもそもマシロちゃんはどんな姿なんだ?
Vtuberの中身(魂)については、諸説ある。
声が可愛いからと言って、見た目も美少女だとは限らない。それはオタクの常識だ。
もしかしたら、声優志望の専門学生かもしれない。
あるいは、私と同じような女子高生かもしれない。
最悪のケースとして、ボイチェンを使ったおじさんという可能性も、ゼロではない(その場合は即座に記憶を消去して帰宅する予定だ)。
店員に「一名様ですか?」と聞かれ、「あ、待ち合わせです」と答える声が裏返る。
私は店内を見渡した。
一人で座っている客を探す。
窓際の席に女性がいる。……違う、あれは参考書を広げているから受験生だ。
奥の席に男性がいる。……スマホゲームに夢中だ。違うだろう。
その時。
店の空気が、そこだけ違う場所を見つけた。
カフェの一番奥。
観葉植物の陰になった、目立たないはずのボックス席。
そこに、一人の「異物」がいた。
いや、異物と呼ぶにはあまりに美しすぎた。
窓から差し込む陽光が、その人物だけをスポットライトのように照らし出している。
サラサラと流れる黒髪。
陶器のように白く、毛穴という概念が存在しない肌。
通った鼻筋に、長い睫毛。
伏し目がちに手元のスマホを見つめるその横顔は、ミケランジェロが人生最高傑作として彫り上げた彫刻のように整っていた。
着ているのは私の通う高校の男子制服だが、彼が着ると、それがオートクチュールのブランド品に見えるから不思議だ。
「……え」
私の思考回路が、一瞬でショートした。
知っている。
あの顔を、知らない女子生徒など、我が校には存在しない。
如月結人(きさらぎゆうと)。
高校一年生。つまり私の一つ後輩。
入学初日にファンクラブが結成され、他校からも見学者が殺到し、下駄箱に入りきらないラブレターでロッカーが埋まったという、生ける伝説。
常に無表情で、誰とも群れず、告白されても「興味ないんで」の一言で斬り捨てるその冷徹さから、ついたあだ名は『氷の貴公子』。
なぜ。
なぜ、そんな学園カーストの頂点に君臨する男が、ここにいる?
偶然か?
いや、あそこは私が指定された席だ。
彼は、誰かを待っている。
……待っている?
瞬間。
私の脳内で、最悪のパズルが組み上がった。
白雪マシロは、今、大人気のVtuberだ。
中の人が若い女性だとしたら?
そして、その女性に、こんなイケメンの彼氏がいたとしたら?
あるいは、この男がマシロちゃんのマネージャーで、裏で「あのオタクちょれーなw」とか言いながら二人で笑っていたとしたら?
「…………は?」
ドス黒い感情が、腹の底から湧き上がってきた。
音を立てて、私の中の何かが砕け散る。
それは「推しへの信頼」であり、同時に「リア充への嫉妬」という醜い炎だった。
ふざけるな。
こっちは命懸けなんだ。
酸素なんだ。光なんだ。
それを、こんな……こんな「持ってる側」の人間が、アクセサリー感覚で消費しているのか?
マシロちゃんの「みんな大好きだよ」という言葉の裏に、この男の影があったのか?
許せない。
私の純情を弄んだことは百歩譲って許そう。私はただの金づるでも構わない。
だが、マシロちゃんという「清らかな偶像」を、リアルの恋愛沙汰で汚すことだけは、オタクの魂にかけて許容できない。
足が勝手に動いていた。
逃げ出したいという気持ちは消え失せた。
今はただ、事実を確かめたい。そして、もし私の推測通りなら、コーヒーを一杯ぶっかけて、「二度とマシロちゃんに関わるな」と捨て台詞を吐いてやる。
私は、処刑台に向かう執行人のような足取りで、彼の席へと近づいた。
心臓の鼓動は、緊張から怒りへと変わっていた。
「……あの」
声をかける。自分でも驚くほど、低く、冷たい声が出た。
如月結人の肩が、ビクッと大きく跳ねた。
彼はゆっくりと顔を上げる。
近くで見ると、その破壊力は凄まじかった。
長い睫毛の下にある瞳は、吸い込まれそうなほど深い漆黒。
整いすぎた顔立ちは、同じ人類の設計図を使っているとは思えない。
だが、今の私には、その美貌すらも「マシロちゃんをたぶらかす武器」にしか見えなかった。
「……相田愛花、ですけど」
名乗る。敵意を込めて。
如月結人は、私の顔を見て、息を呑んだ。
そして、サッと青ざめ、視線を逸らす。
(無視かよ……ッ!)
その態度が、さらに私の神経を逆撫でする。
『氷の貴公子』だか何だか知らないが、先輩に向かって挨拶もしないのか。
やっぱり、こいつはマシロちゃんの彼氏だ。
「なんだ、こんな地味な女かよ」と失望したに違いない。
代理で来たのか、それとも最初から私を値踏みしに来たのか。
私は拳を握りしめた。
言いたいことは山ほどある。
マシロちゃんを返せ。私の夢を壊すな。お前のようなイケメンは、黙ってタピオカでも飲んでろ。
「あのさ、あなたがどういう関係か知らないけど――」
私が噛みつくように言いかけた、その時だった。
如月結人が、震える手でテーブルの上のスマホを掴んだ。
その指先は、小刻みに震えている。
顔は真っ赤だ。いや、青ざめていたのが、今は耳まで真っ赤になっている。
彼は私と目を合わせようともせず、スマホの画面を必死に操作し始めた。
(……は? 何? 警察に通報?)
私が怪訝な顔で見下ろしていると、彼はスマホを口元に近づけた。
そして、何かを呟くように唇を動かした。
次の瞬間。
彼のスマホのスピーカーから、**「世界で一番聞き覚えのある声」**が響いた。
『――こ、こんにちは……相田、先輩……』
「…………へ?」
時が、止まった。
店内のBGMも、他のお客さんの話し声も、すべてが遠のいた。
今、聞こえたのは何だ?
それは、毎晩私の鼓膜を癒やしてくれる、天使の歌声。
砂糖菓子を溶かしたような、甘く、あどけなく、少し舌足らずな、あの声。
白雪マシロの声、そのものだった。
私は周囲を見渡した。
どこかに隠しスピーカーがあるのか?
ドッキリの看板を持った人が出てくるのか?
しかし、目の前にいる如月結人は、真っ赤な顔で、泣きそうな瞳で、私をちらりと見上げると、もう一度スマホに向かって口を開いた。
彼の口元が動くのと、スピーカーから声が出るのは、完全に同時だった。
『……その、驚かせてごめんなさい。……マシロです』
声は、スマホのアプリ――リアルタイム・ボイスチェンジャーを通して響いている。
目の前には、身長175センチ超えの、モデルのような超絶美男子。
低い声が出るはずのその喉からは、私の最推しである美少女ボイスが再生されている。
脳内で、巨大な歯車が軋み音を立てて逆回転を始めた。
如月結人 = イケメン。
白雪マシロ = 美少女Vtuber。
如月結人が喋る → マシロの声が出る。
つまり、如月結人 = 白雪マシロ。
「………………」
理解、不能。
処理、落ち。
エラーが発生しました。直ちに再起動してください。
いや、再起動しても無理だ。OSが違う。
「あ、の……やっぱり、気持ち悪い、ですよね……?」
スマホから流れるマシロちゃんの声は、ひどく怯えていた。
目の前のイケメンも、捨てられた子犬のような、今にも泣き出しそうな表情で私を見ている。
その表情と、聞こえてくる声のギャップが、凄まじい破壊力を持って私の脳髄を殴りつけた。
待って。
整理させて。
私の推しは、妹系美少女で。
中身は、学校一のクールなイケメンで。
でもそのイケメンは、今、私の前で、女の子の声で「気持ち悪いですか?」と聞いていて。
情報量が。
情報量が多すぎて、私のキャパシティ(偏差値42)を遥かに超えている。
「あ、あ、あ……」
私はパクパクと口を開閉させた。金魚のように。
視界がぐにゃりと歪む。
推しに会えた喜びと、解釈違いの衝撃と、目の前のイケメンの顔の良さと、声の可愛さが、ミキサーにかけられてドロドロの感情スムージーになっている。
「せん、ぱい……?」
心配そうに覗き込んでくる彼の顔が、スローモーションに見えた。
あ、睫毛長いな。
肌きれいだな。
いい匂いするな。
マシロちゃんだな。
プツン。
私の脳内で、今度こそ完全にブレーカーが落ちる音がした。
「――――尊っ」
その一言を遺言のように呟き、私は意識を手放した。
膝から力が抜け、床へと崩れ落ちていく私の体を、細く見えて意外と逞しい誰かの腕が、慌てて支える感触があった。
『わわっ!? だ、大丈夫ですか愛花お姉ちゃん!?』
薄れゆく意識の中で聞いたその声は、やっぱり世界で一番可愛い、私の推しの声だった。
……もう、これ、死んでもいいかもしれない。
私の推し活は、どうやらここで「THE END」を迎えるか、あるいは――
もっとタチの悪い、泥沼のような「何か」に突入してしまったようだ。
(第2章 完)
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